カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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最終回 220417 復活の主日

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 今日、復活の主日にはヨハネの福音書の20章の最初が朗読されています。このイエス様の墓がからっぽであった。イエス様の遺体が無かったんです。
このシモン ペトロとそしてヨハネが墓に入ると、何が置いてあったかというと亜麻布と、イエスの頭を覆っていた布と二枚が墓の中にあったんです。このような細かい目撃証言があるというのは、多分この福音書を書いたヨハネが実際にそれを見たからでしょう。しかもその布の置いてある場所まであっちとこっちと書いてあるんです。墓の中には布しかなかったんです。この教会の一つの聖堂の特徴はイエス様ですけれど、復活したイエス様の像が架かっていますが、この復活したイエス様のこの姿は、一体どこをどの場面を描いているのかといったら、イエス様がお墓の中で復活したてのところなんです。この姿を実は誰も見ていない、いわばスナップショットのように描かれています。というのはよく見ていただいたら分かると思うんですけれども、イエス様が身にまとっているのは服ではないんです。胸がはだけていて、片方の腕も出ていたりして亜麻布が彼に掛かっている。頭の覆いは取られて体についている亜麻布がいわば外れかかっている、復活したてのまだ誰も見ていないイエス様の復活した姿が描かれているものなんです。

この後どうなったかというと、あのイエス様の身にまとっている亜麻布をそこに残して、イエスの体だけが今度は次元の変わる世界にイエス様が消えていくというか、復活した体で別の所に行かれる。そのあとにヨハネとペトロが来て、イエス様の身にまとっている布だけを見たということなんです。いわばイエス様の姿は実際は誰も見ていない姿。復活したてのイエス様を創造的に描いているといえるでしょう。

私たちが彼らが実際に見たのはそのあとの墓の中に残されている布だけだったということなんです。でもイエス様はこのすぐ後にマグダラのマリアに現れるわけですが、イエス様が裸でスッと抜けているわけです。マグダラのマリアの前に現れた時には別の布をまとって現れるということなんです。しかもそのあとのイエス様の復活も不思議なんです。第一朗読でペトロがおっしゃっているとおりです。イエス様が復活したのは現れたのは民全体に対してではないんです。イエス様が復活して現れたのは前もって選ばれた証人。イエス様を信じていた人々にしかイエス様はご自分の復活した体を示さなかった。

ピラトとかカイアファとかアンナとか敵対する勢力に現れたらいいと思うんですけれど全然現れていない。イエス様を信じた人々にしかイエス様はその姿を現していない。それはなぜかといったら、イエス様はその信じた人々に現れて、信じた人々が復活したメッセージを人々に伝えていくために、イエスはその人々にしか現れていない。イエス様の復活に現れに預かった人は信仰を持ってそれを受け止めて、そこから新たな使命を受けて派遣されていくことになるわけです。全世界に向かってイエス様の復活の証人となってこの後弟子たちが復活したイエス様の恵みを伝えていく使命をいただいたわけです。

ここに集まっているほぼ全員だろうと思いますけれども、私たちは信じたものとしてここに集まっている。そして信じている私たちには復活したイエス様がその姿と恵み、メッセージを示されることでしょう。それを受けて私たちは人々に少数にしか明かされていない復活の恵みを人々に伝えていく使命が与えられていくということを思い起こしましょう。
信仰者にしか復活の恵みは示されないということですから、私たちはいただいた信仰を持って、イエス様の復活の恵みを受けて喜びを少しでも周りの人に分かち合っていければいいのではないかと思います。そして遣わされる人々に証しすることは、人によっては遠くに行く人もいる。私は遠くといっても日本国内ですけれど、遣わされることになりました。

今日、聖体奉仕者に任命される方々も信仰者としてそれを受け止めて、復活の恵みを分かち合っていく使命として聖体奉仕者に任命されるということです。
そしてここにおられるすべての信仰者は復活した主の恵みを受けて自分自身に与えられた使命を与えられるように、物理的というよりは多くの方は今まで通りの場所で役割を果たしていくということをそれを新たに心に刻んでもらったらいいのではないかと思います。
私自身はとにかく八年前に、イエス様の派遣というのはいつも驚かれますけれども、八年前とにかく僕も一生涯、黙想指導をすると思っていると、その時の管区長がとにかく教会で人が足りないからイグナチオ教会で3、4年働いてくれと言って、とにかく断る理由もなかったんですけれど、まさか働くとは夢にも思っていなかったです。でもそれも主の派遣、やはり主がここに遣わしたいと思われたと思います。

私がここに来て3、4年が8年になりました。私自身もずっとここで働くと思っていたんですけれど、それが次の管区長が私を別の所に遣わして、私も凄い驚いて、結局私は穴埋め要員で人が足りない所に送られてあまり長くいられないタイプです。いずれにせよ新たな所に派遣されることになりました。それは私にとっても、それはいつもサプライズなんです。予期していたこととか自分から希望を出したとか全くないんですけれど、やはり主がそこに行けと言われたからここに来て、主がまた別の所に行けというから私はそこに行くということです遣わされたところで自分の最善を尽くしてできる限りの事をして、特にイエス様の復活をイエス様の復活の恵みをここにいる方々と分かち合っていくのか、それを心掛けてきたと思います。
まだここの仕事が今日も詰まっていて、次に何をするかとかまだ何も考えられていないんですけれど、新たな所に派遣されたらそこで主の派遣を、遣わされた使命を精一杯、それはペトロ、ヨハネと同じだと思います。私たち一人ひとりは神様から遣わされた者として、それがサプライズであったり今までの継続であったり、それはケースバイケースですけれども、でも主が託している、皆さん一人ひとりに与えられている使命を忠実に誠実にそれを果たしていけるように、復活の恵みを特に周りの人々と分かち合っていけるように、互いのためにお祈りしあいたいと思います+

 

 

 

 

 

 

 

       キリストの光 神に感謝