カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-04-03 入門講座 30 キリスト者

英神父 入門講座 30 キリスト者

 今日はキリスト者の生き方ということでお話します。キリスト者の生き方はただ倫理だけを、つまり悪を犯さないことだけではないです。ローマの信徒への手紙12章1節から 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」パウロの手紙は最初は難しいお話、神学的なお話があって、特にローマの信徒への手紙は最も有名な手紙ですけれども、11章までは救いはどういうものであるかということを語っていました。それに対して12章からは後半は倫理的勧告になります。最初は救いは何なの神学的説明をして、後半はこういうわけでこのようにしなさいと。 パウロの手紙が難しいと思う方は、後半だけ読めば具体的にいろいろ書いてあるということです。ローマ11:33「 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」わたしたちは勉強してもお祈りしても、知り尽くせないほどの神様の神秘と言うか深みと言うか様々なことが、その一部分しか知り得ないですけれども、パウロを通して自分自身をさまざまのことでいろんなことがわかってきたり、学んだことを生かしていくようにというわけだし、わたしたちも学んだことを生きていくというのが、わたしたちに必要なことだと思います。12章1節「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」クリスチャンにとって一番大事なのは日曜日にミサに預かるということです。プロテスタントでも日曜日に礼拝に預かるということです。そして「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」いけにえを捧げるというのはある意味宗教的なもので、どこにでもあります。いけにえというのは感謝の気持ちだったり罪の償いだったり、いろんなことで捧げるわけです。キリスト教のミサとか礼拝はお供えものがない。献金ぐらいです。本当のいけにえは神様がささげられたいけにえを感謝して記念しています。いけにえを人間がささげていないんです。何をいけにえに捧げるべきかといえば、自分の体をということです。体とは自分自身の生活に関わること全てだと思います。つまりわたしたちの生活、活動すべては、体を通して行われるからです。人と喋るのも体を通して、愛するのも体を通して、笑顔にしてもボランティアにしても、仕事にしてもパソコンを使うにしても、体を使うことで行っているわけで、体をささげるというのは自分の生活の全てを捧げることになる。だからクリスチャンの礼拝はもちろん大事ですけれども、それと同じぐらいもっと大事なのは、月曜から土曜日の生活の中での自分をいけにえとして捧げるということです。それが喜びであったり悲しみであったり、ルーティンと言うか、退屈なことであったり、神様に体を通してささげていく生き方が、クリスチャンの生き方の最も大事なことだと思います。日曜日だけクリスチャンで、平日は普通の人というのはどうか。平日もわたしたちは自分自身を神様に捧げていくような生きかたを日々していくわけです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」この世に倣うということは普通の人と同じように神様 を知らない人と同じように、この世といった場合は悪い意味だと思いますけれども、罪とか欲望とかそういうものに捕われていくような生き方に倣うと、神に喜ばれる聖なるいけにえではなくなる。それらはただの日常のことに巻き込まれているだけになってしまうのはよくあることでもあります。だからこそわたしたちは礼拝を通して心を整えて、自分自身を神様にささげる生き方に少しずつ近づく。「むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、」表現的にはいいと思います。書いていただき、なので自分の力で変えるのではなくて、神の恵みによって少しずつ変えていただく、神の恵みによって、ということが大事だと思います。だから洗礼を受けてすぐ変わるかと言ったら変わるわけではない。少しずつ心を入れ替えながら、世に倣っていた自分を放して、神の恵みによって少しずつ自分の生き方、心の在り方、持ち方を変えていただくように努めていく。それがわたしたちの生き方の大切な点です。多分完璧に全部はできないから、いつも少しずつです。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」ということです。わきまえるようになりなさいということですが、祈りの言葉で言ったら、識別、識別するといいます。つまり世の動きとか、罪のものとか、いつのまにか巻き込まれたり、あるいは神様の働きがわたしたちの中にありますから、何が本当に神様に喜ばれるものなのか、何が神様に御心なのかをわたしたちは識別しながら歩んでいくということが、非常に大切なポイントになると思います。だから思うに、掟を守る方が簡単だと思います。決まったことをやるだけですか。識別ということは掟を守ることだけではなくて、日々の生活の中で日々いろんな選択をしたり、これを買うか買わないか、この人と付き合うか付き合わないか、いろんなことをどのようにすればいいか、絶えず識別をしながら、神の御旨を求めて行くということを、あるいは主体的に生きるとも言えるし、神の御旨をいつも探し求めていく受動的な生き方でもあるわけです。識別しながら生きるというのが最も大切なことだと思います。特に現代は複雑だし、様々な問題の中にわたしたちは投げ込まれることは多いと思います。その中でどうするかということです。そのために祈りとか自分自身を振り返るとか、沈黙の時を持って、自分の心に聞いてみたり、神様に聞いてみるときを持つことは意味があるのではないかと思います。何かの時に何が御心に適うのか、よくよく自分に問いかけて決断しようとしていくことが、わたしたちのクリスチャンの生き方の基本だと思います。それを繰り返していくことが、当然失敗をしたり間違っていたということもありますが、その繰り返しの中で何が神の御旨なのかが分かって、しっかり実行できるようになっていくのが大切なことだと思います。だからお祈りすること、振り返ったり何でもかんでもやればいいのではなくて、しっかり御旨に適うことを見極めて、なかなか分からないけれども探していきながら生きていくということが大事になると思います。その後3節「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。」傲慢な人が多かったのか謙遜に生きなさいということがパウロのわたしたちに対する一つの勧めで、謙遜というのはクリスチャンの生き方の美徳の中で、謙遜が大事だと言われている一つです。もちろん愛とかは大事ですが、謙遜さというのはものすごく大事なポイントです。これは案外難しい面もあります。日本は基本的には謙遜な文化です。表向きは謙遜な文化ですけれども、いろんな人と黙想会とか話していると、やはり痛切に思うのは、思っているほど謙遜ではないということです。心の中は傲慢で目立ちたいとか自分は特別だとか思っている人は多いのも事実です。本当の意味で表面的に謙遜になるのは常識で、心の底から謙遜に生きれるようにということが、わたしたちに問われていることだと思います。ある本で確か謙遜には二つあると書いてありました。不完全な謙遜と、完全な謙遜と二つあるということで、不完全な謙遜は何かと言ったら、自分がどれだけ罪深いとか弱いかとか、欠点があるかということを認識していたから、自分はやはり謙遜に生きなければならないと、自分のダメなところを通して謙遜になるというのは非常に大事なことです。罪深さとか弱さとか、しっかり認めるという意味での謙遜は大事なことですけれど、完全な謙遜ではないということです。完全な謙遜は一体何か。それは神様の素晴らしさを知るということであります。先ほどの箇所ですが33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」とパウロはこれを言っているということは、ある程度神様の深みが分かっているということです。神様がどれほど素晴らしい方か、どれほどの恵み深い方かということが、分かれば分かるほど、その深さがさらにあるということを、パウロが分かっていたから書いています。だから完全な謙遜というのは、神様の素晴らしさを深く知っていることです。神様の素晴らしさを知っていれば、自分がいかに小さいものかということが一目瞭然だからです。神様の素晴らしさに比べれば比べるほど、自分個人の存在なんて小さいものだと、神様を知れば知るほど人間の小ささとか自分の弱さとかが自ずと分かってくる。それが完全な謙遜だと書いてありました。結局傲慢で自分が素晴らしいとか思っているのは、神様を知らないということです。神様のすごさとか、だから無神論者になればなるほど、自分自身しかないから、自分を高めるとかになってしまいますが、一旦神様の凄さとか、どんな力を持っているかとか、分かれば分かるほど、わたしたちは神の前にひざまずくしかない。ひれ伏すしかない。だからパウロは「わたしに与えられた恵みによって」神の恵みの凄さを骨の髄まで知っている。あるいは自分の弱さを骨の髄まで知っているから書いているんだと思われます。だからわたしたちは信仰生活を歩むというのは、これから洗礼を受ける方、間もない方は、これから神の恵みの凄さを分かってくると思います。分かれば分かるほど、もっと感謝の気持ちが湧いてくるし、もっと神様を賛美する気持ちが湧いてくるし、もっと謙遜になる。そんな気持ちにならざるを得ないということが、信仰生活の道だと言えると思います。「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、」これは体に例えているんです。わたしたちは体は一つでも口もあり手もあり足もありですけれども、様々な部分があって、それを全体を形作っているように、5節「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」キリストに結ばれて一つの体ということは、キリストの体であるということです。教会というものが一つの体だと、各自は互いに部分だから洗礼を受けている人はキリストの体にどこかの部分が組み込まれているんです。洗礼を受けるということは、キリストの体のどこかの部分に組み入れられるという部分がある。それが足の裏なのか、頭のてっぺんなのか、はっきり分かりませんが。みんなで力を合わせて一つの有機的な体を造って、神を賛美するようにわたしたちは呼ばれているということです。威張る必要性はありません。どっかの部分であるわけですから、他の部分を否定する必要性はない。コリント人への第一の手紙12章12節「 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」など喧嘩が始まります。そのようにしてわたしたちもつい人と比較して、人を批判したくなることもありますが、各自は互いに部分なんだと受け止めていくことが大切だということです。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。」わたしたちは洗礼を受けてクリスチャンとして与えられる恵みですけれども、恵みは人それぞれに異なった賜物としてあらわれる。賜物というのは性格とか考えた方がいいし、能力と考えた方がいいし、その人の個性と考えた方がいいですけれども、与えられた恵みによってそれぞれに違う賜物が、それぞれに与えられているということなんです。これは本当に素晴らしいなと思います。与えられた賜物に気づいて、その賜物を生かすように、わたしたちは呼ばれているわけです。預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言するようにと思います。預言の賜物というのは一般的ではありませんが、神様のメッセージとか特別に受けて分かる人はそれを人に伝えなければならないし、「奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。」ここはわたしたちにあるものだと思います。様々な奉仕の賜物といっても人によって様々なので、自分に与えられた特別な賜物、性格だったり能力だったりすることはあるでしょうし、例えば特殊な職業を持っているお医者さんとかは、医師の免許を持っていなければならないし、そのような賜物もあれば、性格的な賜物もありますから、自分に与える賜物を活かすようにということです。「教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」でも同じボランティアを活動していても、一人一人賜物が違いますから、自分なりの形で賜物をというんです。どういう賜物が与えられているかなかなか分かりませんけれども、わたしたちが日ごろ仕事や生活、祈りの中で、だんだんと気づいてくるがあると思います。それをわたしたちは生かすようにということです。賜物は人一人に与えられています。違いもあります。本当に様々だから、隠れた形で密かに何か果たすのが得意な人もいれば、目立つところでリーダーシップをとるのが得意な人もいます。あまり活動だけではありません。その人の存在そのものが賜物ということもありますし様々なので、杓子定規に全く決められません。自分の賜物が何かに気付きながらも、活かしながらも、自分の職業として表される人もいれば、家庭生活の役割でそれを活かされる人もいれば、教会でそのような賜物を活かす方もおられる。一番大事なのは、月曜日から土曜日、自分の家庭とか職場で活かすことが大事なことだと思います。意味は違うけれども、わたしたちは洗礼を受ければ新しい命を与えられるわけです。それは霊的な神の恵みで、新たな命が与えられます。その命はどうするかと言ったら使命なんです。使命を生きるために新たな命を与える。使命は命を使うと書きます。与えられる命は何のためといったら、人々を奉仕したり、何か分ち合うためだというのです。そのようなことが賜物の中で、最も大事なことであろうと思います。なかなか分からないこともあるし、年齢で変わることもあります。若いうちは活動的なこともあるけれども、歳をとればできない事も出てきてどんどん変わってきますから、今の自分の中で何かできるのかということは絶えず問いかけながら、今できることを今いる場で果たしていくということが非常に大切なことだという風に思います。その後9節以下が倫理的な勧告が様々です。基本的には愛のことが中心で描かれています。12章14節「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」つまり迫害を受けたりしたら、それを呪うのではなくて返って祝福で返しなさいということです。あるいは19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20節「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」迫害する者を祝福とするのは難しいことではあります。この前列福した高山右近は殉教者の生き方というのはこういうものです。迫害されたりしてもそこで復讐をして仕返しをするのではなくて、それを受け止めて相手を赦して祝福で返すという生き方です。なかなかできないけれども、このような生き方をわたしたちは目指していくということです。殉教者の定義があって一つはっきりしているのは、迫害する者と戦ったら殉教者にならない。日本だったら島原の乱でたくさんの二万人ぐらいのキリシタンが集まって幕府と戦争するわけです。全員殺されるわけですけれども、彼らは殉教者ではありません。剣を取って戦ったから殉教者ではありません。殉教者の枠には当てはまりません。人間的に考えれば島原の乱の人たちの気持ちも分かります。やられているんだからやり返せという、復讐したり敵を呪って戦うみたいな、わたしたちの日常的なことであります。けれどもそうではなくて、殉教者のように迫害に圧迫を甘んじて受けて、しかも相手を恨まないで赦すということです。殉教者の言葉で迫害者を呪ったり恨みつらみがあったりすることはない。そういうのがもし出てきたら、殉教者として認められません。幕府の人たちがこんなにひどくてけしからんというのは、殉教者にはなりません。甘んじて全部受け入れて、全部赦す、殺されるままにというのではないと殉教にはなりません。もちろんなかなかできないことではありますけれども。そのような愛を生きるように呼びかけられているということは、心がけて行ったらいいと思います。13章8節からは愛です。愛し合うことが律法を全うすることだということで前回説明したことです。10節の最後「愛は律法を全うするものです。」掟とか法律を超えて愛を生きていくことの中に、倫理とか掟とか義務が全て入る。14章1節「 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」 この初代教教会では何を食べるか問題がありました。大きな問題は、コリント人への手紙では、偶像に備えられた肉を食べていいかということでした。お肉の大半は神様にささげられていた。それが一番いいところが祭司に渡って、残り物が出回っていたんだと思います。食事を食べようと思ってもそれが偶像に捧げられたものか、気になって食べれない人もいたと思われます。それでどこの教会でも偶像に捧げられたものを食べていいかどうか大きな問題であります。倫理的なものというのはそういうことに関わるということで、生活の中でどうしたらいいかということに関わってくるわけですけれども、それに対してパウロはどう言っているかといったら、パウロ自身はあまり気にしていなかったということです。でも14章1節「信仰の弱い人を受け入れなさい。」信仰の弱い人は何かといったら、ものすごくそれが気になる人です。気になって野菜しか食べれない、あるいは肉は駄目だから食べないで、野菜だけ食べるような人をむしろパウロは信仰が弱い人と言っています。頑なに守っている人は信仰が強くて、どうでもいいという人が信仰が弱いように考えますけれども、こうでなければいけないと思っている人を信仰が弱いと言っています。そういうことを気にしない人のほうが信仰が強いと考えているわけです。そうすると結局食べる人と食べない人で喧嘩になります。食べる人に対しては不信心だと。偶像崇拝の肉なんか食べて純粋ではないと怒ったり、その逆に食べる人から見れば、神経質すぎる、そんなこと気にしない方がいいということで、分裂とか喧嘩になるということが、当時の問題です。今の段階としては皆さんの中で、どう生きていくかという対立があると思います。お互いの違いを受け入れなさいということです。あまりにも具体的にあげないですけども、ミサの預かっている人の中にはこだわりがある人もいます。5節「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。」特別に考える人もいれば、あんまり考えない人もいるわけで、今でもありえそうなことであります。でもそのあとが大事です。「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」パウロははっきり言っています。だから自分でちゃんと識別して、自分で決心しなさいと、それを決心したらそれをやればそれでいいと、パウロは言っているわけです。だからカトリックで認められている外側のことは、それは違うんではないですかと言うかもしれないけれども、幅が広いですから、その中で自分がどうするかは自分が識別して、食べるか食べないかを自分で決心してやりなさいということをパウロは言っているわけです。6節「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」食べる人は神に感謝して食べればいいし、食べない人は感謝して食べなければいいということです。両方とも神様を感謝と賛美でささげて、自分はこうするとか、自分はこうしないということをお互いに認め合いなさいということです。前提としてはしっかり自分で識別した上で、自分はこうするということを決めるということが大事なことです。13節「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」あまり人のつまずきになるようなことをその人の前でするのは控えなさい。信仰の弱い人に対して、あまりこだわっていることを遠慮するように、その人達の立場も認めなさいということです。そして17節「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」わたしたちが目指すのは神の国の喜びであったり平和であるから、何を食べるか食べないかということについては、そんなにこだわらなくていいということです。大切なのは神の国の正義と平和と喜びを目指して、わたしたちは生きるように呼ばれているということです。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」ということでそのような心で行ったらいいと思います。パウロ自身は21節「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。」肉を食べない酒を飲まないと決めた人の前で、飲んだり肉を食べたりは控えて、その人の心を騒がせることになるので、ある程度注意しましょうということです。22節「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。」だから識別して決心したところにしっかり立って歩むようにということです。「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。」どっちにしようかなと迷っているのはよくないということです。確信と書いてありますが、本当は信仰です。自分の信仰に基づいて決心してやりなさいということなんですけれども、当然周りの人の配慮もしながらということになります。そのような心で歩んでくださったらいいと思います。   

そしてこの教会の方へ向けてですけれども、ミッション2030というのを教会のモットーとして決めたんです。ミッション2030というのは、 教会というのは他の人のためにあるというものです。自分だけのものではなくて、教会共同体というのは社会で苦しんでいる人々のためにあるということをしっかり意識して、福音宣教、自分の使命を果たしていくということを大事にしましょうということです。四つの柱というのがあって、祈りを深めるということがあって、わたしに言わせれば祈りを深めるというのは、識別する力を深めていくということです。長く祈ればいいってわけではありませんが、忙しい生活の中で、神の御旨が分かるような識別力を養うことが祈りを深めることの本当の意味なんです。それで福音を伝えることが、さっき言ったように賜物を生かして使命を果たすということです。それが福音を伝えるということの一番のポイントになります。そして3、「共同体を生きる」ということはキリストの体の一部分としてお互いにつながりを大切にしながら歩んでいくということです。4、「共に助け合いながら歩んでいく」ということで、これを目指していきましょうということなので、イグナチオ教会ですけれども、どの教会にも当てはまることです。こういうことも意識したらいいのではないかと思います十   

                    

                                 END

 

2017年 4 月3 日(月)
 第 30回 キリスト教入門講座 
 カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
  イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記