カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-06-04  聖霊を受けなさい

英神父 ミサ説教 聖霊降臨の主日 聖イグナチオ教会於

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ヨハネによる福音書 20章19-23節  その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十

 今日は聖霊降臨の大祝日にあたっています。復活した主がこの聖霊の恵みを、わたしたちに与えてくださるわけです。今日の福音書では復活したイエス様が「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」復活した主から聖霊の恵みがわたしたちに与えられるわけです。何のために聖霊がわたしたちに与えられているのか。それはイエス様がおっしゃいます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」イエス様がわたしたちを遣わすために、聖霊の恵みをお与えになった。わたしたちは聖霊の恵みを受けて遣わされている。どこに遣わされているのか。それは一人一人違うでしょうけれども、職場であったり、家庭であったり、みなさんが月曜日から土曜日を過ごして生活している場に、聖霊の恵みを受けて遣わされているということです。聖霊の恵みを受けてわたしたちは主が望んでいるところに派遣されていると言えるだろうと思います。
この教会で「ミッション2030」という教会の目標をたてましたが、一言でいえば、これに尽きると思います。聖霊の恵みを受けて、わたしたちは遣わされている存在であると。それで遣わされたところで、この聖霊の実りを結んでいく、そのようにわたしたちが心がけていくということだと思います。
聖霊を受けて遣わされる中で、一体何が必要なのか。今日の言葉で言うならば、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」罪を赦していくために、わたしたちは派遣されていると思います。どこに派遣されているかというと、罪のあるところに派遣されているということです。もっと簡単に言ったら、罪や苦しみや混乱とか、そういうところにわたしたちは遣わされていると言えるだろうと思います。だから罪を赦す使命を帯びていくということです。でもこれは、わたしたちが聖霊の恵みを受けて、何を果たしていくのか。どのような態度をとるのか、という事が問われているものだと思います。赦しだけでも無いかもしれない。でも、聖霊の働きが働くような、そういうものに赦しという事が必要であると言えると思います。
たとえば、ある人が結婚されていて、御主人がひどい人で、相当いじめられて、泣かされた。でも歳をとって御主人が病気になって介護が必要になった。つまり奥さんが今まで敵だった御主人を、介護しなければならなくなった。若い時はひどく憎んでいたその御主人を、世話しなければならない。わたしが励ましと冗談で「今こそ復讐するチャンスじゃないですか」と言ったら、そんなことはできません。やはり最後まで看取らなければならないと奥さんは決意して、いじめられていた御主人の事を最期まで看取りました。でもそういう時にこそ、赦すという事が、必要な時もある。でもその奥さんが赦すという決断をして、最期まで御主人の世話をした時に、聖霊の力がその夫婦の間に強く働いて、恵みの中で最後の日々を送ることが可能になったということです。
聖霊の働きにわたしたちは委ねていくということ。その中で何かが変わっていくということはあると思います。
たとえば今日の第一朗読ですけれども聖霊降臨の最初の出来事ですね。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」そして不思議な出来事だったんですけれども、彼らはそこにいた人々は世界中から集まっていたんです。パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネ、地中海沿岸に、様々な国から集まってきた人々がいて、ある意味みんな外国人で、違う言葉を話していたのに、言語の壁が取り払われて、全員が理解することができたというのが、聖霊の働きの最初の実りです。特に外国の人と関わるとよく感じることでしょうけれども、言葉が違うということで、どれだけ理解ができないか。違う外国の言葉で、日本語しかできない人は苦労するし、この言語のバリアーというのは大変なものがあって、理解できない人間の苦しみを生んでいる一つのものだと思います。この時は、違う各々の言葉の障害が取り払われて、お互いに急に理解ができるようになったという。これは神の国の恵みを味わった。わたしたちは言語だけの問題でなく、理解できない壁をいっぱい背負っている。男女や家族の中でも理解できないことはあるし、同じ言葉を話していても、社会的な立場が違ったり、敵とか味方とか、国と国で争ったり、わたしたちは様々な障害や壁を、お互い同士の間において、理解し得なかったり、愛し合えなかったり、憎しみ合ったり、わたしたちの現実はそういうものかもしれない。でも聖霊の恵みでそれら全てのこだわりとか壁とかが、全部取り払われて、お互いが何の苦労もなく、100%理解し合えた。その中には100%愛し合うことができる関係が、突如として広まったんです。それは聖霊の恵みで望まれていることだと思います。その一つが赦すという行為によって、壁がばったり倒れて、お互いが理解できる世界が現れるということです。
聖霊の恵みの中で、聖霊を促されて、わたしたちは何をするように呼ばれているかということです。それは赦しに限らないと思います。つい最近聞いた話ですけれども、ある教会の会議で、旧勢力と新勢力の二つのグループが対立していて、話し合いも全然うまくいかない。お互いに対立し合っていて、お互いの既得権力みたいな。それである時にそこの一人が突然「バカヤロー!」と会議で大声で叫んだ。普通だったら火に油を注ぐような行為だったんですが、それが聖霊によって促された事だったんでしょうけれども、それでみんなハッとして、自分たちの捕らわれがそこでポロンと取れたようになった。突然そこからお互い本音で喋ることができた。そこに居合わせた神父様が、会議の後に「聖霊が働いた、この会議では」と言ったそうです。
わたしたちは捕らわれとか、あの人はああだこうだと言っている。それが何かのきっかけでポロンと取れたら、お互いが理解できる。聖霊の恵みの世界が広がる。わたしたちはそれを目指しているんだと思います。理解できないとか、あいつが敵だとか、憎しみ合ったり、無視し合ったりしていることが多いですけれども、聖霊の恵みの中で、聖霊の働きの中でそれを赦すのか、何かの行為なのか、聖霊の導きで真剣に自分の自我を超えた行為を、態度をする時に、わたしたちの壁が、ポロンと落ちて、急に理解し合える、愛し合える、神の国が広がっている。
わたしたちの目指しているのはそれだと思います。その神の国にお互いが本当に理解し合えて、受け入れ合って、愛し合っていける。これが一番最初の聖霊降臨の出来事ですけれども、その出来事に向かって、わたしたちは歩んでいると思います。
これだけ国と国とが対立したり、民族と民族だとか、わたしたちは今こそ聖霊が必要な時代に、聖霊の働きを願っていかなければならないと思います。身近なところから、世界全体の平和にいたるまで、その聖霊の恵みを、わたしたちが願いながらこのミサをささげたいと思います十

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第一朗読  使徒言行録  2章1-11節

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

 第二朗読 コリントの信徒への手紙第一 12章3b-7・12-13節

 〈皆さん、〉聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです十

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                      2017 年 6 月 4 日(日)18時ミサ
                       聖霊降臨の主日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記