カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-06-28 タリタクム

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マルコによる福音  5章21-43節 (そのとき、)イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。十

 今日の福音書は会堂長のヤイロの娘を生き帰らせる奇跡をイエスが行ったというお話です。命というのは神様に属しているものであって、神様が命の源である。今日の第一朗読であるならば 「神が死を造られたわけではなく、 命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。 生かすためにこそ神は万物をお造りになった。」命は創造されたもので、神様がいつ命を与えていつ命をとられるかということ、それは神様の専有物というかわたしたち命は人間に属している自分のものだと思っていますけれども、自分の命は自分のものではなくて神様のものです。神様が与えたちものに与えることができる。だから今日のヤイロの娘も一旦死んでしまったわけです。でもこの命をこの世にイエス様の命をとりもどしてきたということです。「タリタ、クム」と言って子供の手をとって起きあがらせたということですから命が誰のものものであるかということをよく語っているような気もします。一旦死の国に入っていこうとする魂をイエス様が呼びかければ呼び戻すことができるというイエス様の特別の力というか恵みというかそういうものもよく感じられる聖書の箇所だというふうに感じられます。
わたしたちの命も結局イエス様が握っておられる。イエス様がわたしたちの命に力と恵みを今日も与えてくださっているということ、それをわたしたちは心から信じたいと思うんです。
わたしたちはいろんな理由で、死や罪や闇の力に捕らわれてそこから出れないということも、わたしたちの中にはたびたびある。それも認めなければならないことです。たとえば自己破壊的なものに捕らわれてしまう人も少なからずいる。たとえばアルコール依存症やさまざまな依存症は、結局自己破壊に向かっていくような、本来の命でないものに捕らわれてしまう、そういう現実もわたしたちは認めなければならないと思います。
昔に大阪の釜ヶ崎というところで働いていた時にそこは日雇い労働者の人と野宿者が多いところでしたけれど、ひと昔前はアルコールやギャンブル依存症の人が多く、それで生活が完全に破たんしてしまって野宿になる。だから釜ヶ崎にはアルコール依存症の更生施設があってそこは牧師先生がやっておられたんですけれども、わたしもそこで手伝いをやっていて、彼らの立ち直りの手伝いをやっていた時があったんですがなかなか難しい。闇の力死の力に捕らわれていますから、そこから起きあがっていくのはなかなか大変な事だと思います。何回も再発してやめていると思ったらまた飲んでしまって再発を繰り返しながらなんとか立ち上がっていく方々もその中におられました。
そのうちの一人に人とたまたま道端で会って、立ち話していたんですけれども、その人は自分はアルコールでやられてしまって、仕事もできなくなったし家族も捨てることになって、全て破壊的な感じになった。でも彼が言うんですけれども、よくよく自分の事を考えたら立ち直る理由がない。どうせだめなんだからこのまま酒を飲んで、のたれ死んだっておかしくないし、福祉のお世話になってお金をもらってなんとか生きているわけですけれども、何回も彼はやめても再発して嫌になることもありました。その度に責任者の牧師先生が自分を引き止めてくれたという。嫌になって、こんなところやめてやる、と言った時に何回も牧師先生が止めてくれた。牧師先生は小柄で体育会系の感じのごつい人で、泣きながら彼をとめてくれたと。ここを出たらあなたは終わりだろうと、続けた方がいいからと。説得してくれた彼が言うには、どうせ俺は虫けらみたいな人間で社会の屑みたいなものだと、どうせのたれ死んでもいいようなそういう自分に牧師先生が泣いてまで引き止めてくれた。自分はどうでもいいけれどあの先生が泣いて引き止めてくれたということがあったから、自分はなんとか立ち直って歩んでいきたいということを言っていたんです。
彼の死に向かう力を止めたのは牧師先生の本当の愛から出てくる立ち上がれという涙ながらの声だったわけです。だから彼は死の力をストップしてなんとか立ち上がる道を歩んでいる。
わたしたちには負の力も働いているのも事実ですが、イエス様はわたしたち一人一人に、起きあがれ、立ち上がりなさい、とメッセージを語りかけているのは事実だと思います。この少女は死の国に入っているわけですけれども、でもイエス様の愛のこもった言葉が、死の国に入った彼女の霊魂に、いわば突きささって言葉によって、彼女は命の世界に引き戻されたわけです。
その言葉を人生で何回も聞けることではないかもしれないですけれども、イエス様はわたしたち一人一人に向かって起きよ、立ち上がりなさいと命の励ましを与え続けている。それをわたしたちの心に刻みたいと思います。
だからこそわたしたちは日々が退屈だったり、中には死の危険にさらされている方もおられるかもしれないですが。でもイエス様のメッセージははっきりしている命の言葉です。立ち上がりなさい。起き上がって歩んでいきます。その言葉はわたしたち一人一人に今日も語りかけていると思います。命は神様のものですからその神様の命をいつもわたしたちに分け与えてくださる。だからわたしたちは時々はがっかりしたり前を見たりどうでもいいと思ってしまうこともありますけれども、イエス様の言葉があるからこそ、再びわたしたちは立ち上がることができる。
イエス様は言うんです。会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい」わたしたちが信じるのは神様の言葉だと思います。神の命を信じている。この世のどうでもいい事を信じているわけではないですから。わたしの知り合いだったおじさんも、牧師先生の言葉を信じて立ち上がることができたのですから。
わたしたちもいつもイエス様の言葉を信じて、立ち上がって前を向いて歩んでいくことができるように、その恵みを周りの人にも分ち合って歩んで生きるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読  知恵の書 1:13-15、2:23-24

 神が死を造られたわけではなく、
命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。
生かすためにこそ神は万物をお造りになった。
世にある造られた物は価値がある。
滅びをもたらす毒はその中になく、
陰府がこの世を支配することもない。
義は不滅である。

神は人間を不滅な者として創造し、
御自分の本性の似姿として造られた。
悪魔のねたみによって死がこの世に入り
悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 二 8:7、9、13-15

 (皆さん、) あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。
 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることはなく、
わずかしか集めなかった者も、
不足することはなかった」
と書いてあるとおりです十

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                      2015 年 6 月 28 日(日)
                       年間 第 13 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記