カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-10-01 それでもyesと言い続る

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

 マタイによる福音書 21章28-32節(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」十

  今日の福音書は、イエス様がたとえ話で語っているわけですが、このぶどう園に行って働きなさい、という父親の呼びかけというか、命令というか、それに「はい」と言ったり「いいえ」と言ったりする。あるいは自分の中でも「はい」と言ったり「いいえ」と言ったりしてしまう。わたしたちがどのように生きるべきか、イエス様が問いかけているお話であろうというふうに思われます。
「はい」というか「いいえ」というか、それもなかなか難しいところもあると思います。知り合いのプロテスタントの牧師先生は結婚しているんですけれども、奥様が外国の方で、お話しする機会があって、日本語を学ぶ時に、同じ教会の先輩外国の女性から、この二つの日本語さえ押さえたら大丈夫だという言葉を習った。それは思った時に「はい」といったらダメだと。「そうですね」と日本の中ではと。「いいえ」と思ったら「いいえ」を言ったらダメだと。「そうですか」と言う。日本では「はい」とか「いいえ」とか、はっきり言ったら絶対ダメだという。「そうですね」と「そうですか」の二つさえ使え分けができたら、あなたは日本の社会で生きていける、と言われたと言っていました。日本人だったらば「はい」とも「いいえ」とも言わずにぼかす。それはわたしたちに多いのかもしれないですね。
管区の偉い方に頼んで、返事の電話がかかってきても、結局イエスなのかノーなのか分からない時があって、話していると「それでいいですね」と言われ、どっちのいいですねなのか分からない時があります。
人間関係はそれでいいかもしれませんが、やはり神様の呼びかけに対して、わたしたちは「はい」と答えるか、「いいえ」と答えるか。そこははっきりしなければならないことは多々あるのではないかと思います。
みなさんが信仰者になるという決断は、成人洗礼の方は、それは神の呼びかけに対して「はい」と答えたからこそ、信仰の道を歩み出したわけだと思います。あるいは結婚するにしてもそうだと思います。呼びかけに対して「はい」と答えたから。仕事をする時もそうかもしれない。キリスト教の一番の根本的な考え方といったら「人間とは応答する存在である」呼びかけがあって、呼びかけにこたえるという存在であるということですね。自分から何かしたいか、したくないかではなくて、まず最初に神の呼びかけがあって、その呼びかけにこたえることもできるし、こたえないこともできる。「はい」とも言えるし、「いいえ」とも言えるわけですね。今日のお兄さんと弟が「はい」と言ったり「いいえ」と言ったり違うわけですけれども。でもわたしたちの中にも両方が混ざっているというふうに言えると思います。
思うに難しいのは、最初に「はい」ということも、たとえば洗礼を受けるとか結婚するとか、わたしだったら司祭になるとか、修道会に入るとか、それ自体大きな決断ですけれども、難しいのは「はい」と言って「はい」と言い続けることですね。実際それが難しい事だと思います。
イエズス会に入って三十年以上。神父になって二十年以上ですけれども、先週も叙階式があって初々しい三人が神父になりましたけれども、それはそれで神様には「はい」と言うことですけれども、「はい」と言い続けることが何倍も難しい。結婚生活でも、仕事でも、そして信仰生活でもそうかもしれない。時々「いいえ」と言いたくなるし、態度で示すことも起こり得るでしょうけれども。神の呼びかけに対して、時には迷うこともある。時には逃げてしまうこともあったとしても、神様に「はい」と言い続ける道を歩むかどうかですね。
信仰生活だったら、たとえば教会のトラブルに巻き込まれてしまうとか、あるいは神父様の態度につまずいてしまうとか。嫌な事が起こり得ると思います。結婚生活だって同じでしょうから。ずっと理想的にはいかなくて、がっかりしたり嫌になったり。でもその度に「はい」と言って、やっぱり神の呼びかけがあるからそこに「はい」と言って、それを誠実に。あるいはそれをなげやりではなく、しっかりと受けとめて、招きにしっかりとこたえ続けられるかどうか。それがわたしたちの信仰で最も大切なことですね。
今日のたとえの弟だったりお兄さんだったり、わたしたちも度々混ざっています。「はい」と言っても「いいえ」の気持ちになって態度で示せなかったり。あるいは「いいえ」だと思っていたけれども、やっぱり考え直して「はい」と言って歩むこともある。良いことの場合は問題ないですけれども、突然病気になったり、それを神の呼びかけとして「はい」と受け取るかどうかですね。パートナーが亡くなることもあるかもしれないし、仕事がうまくいかなくなることもある。人生には様々なことがあるわけで、その時その時に、やっぱり神様に向かって「はい」と言って、信仰でそれをしっかりを受けとめて、神と共に道を歩んでいく。誰しもそれを他人が代わることが出来ないわけですね。自分の結婚だし、わたしだったら自分の司祭職だし。あるいは自分の仕事だし、あるいは自分の教会生活だし。
フランクルというユダヤ人の有名な心理学者がいて、彼の古典的な名著の一つは「それでも人生にイエスと言う」それでも人生に「はい」という本があって、数年前に新装版で出て読んだんですけれども、そうだと思いますね。フランクルの言葉をクリスチャン風に言えば「それども神様にイエスと言う」それでも神様に「はい」と言い続ける。年をとっても病気になっても困難があっても。そのうち自分たちの死も迎えなければならないですけれども。様々な中でそこに神様の恵みの呼びかけがあると、信じて「はい」というわけですね。奴隷のように嫌々でなくて、そこにこそ神様がわたしを更に成長させ、実り豊かな人生を更に深い信仰を与えようとしてくださっているという、神様の肯定的な呼びかけ。恵みへの呼びかけとして受け取って、それを心からよくよく考えなければならないですけれども「はい」と言って歩むかどうか。「はい」と言って歩み続けること自身が、わたしたちの信仰の道だと思います。
何でこの日曜日にミサに来るのか。一つはその「はい」を言い続けるためにですね。あなたを信じますと。一週間色々あったけれど、それでもやっぱりあなたの導きを信じて、歩み続けますという、神様に「はい」と答える。それこそわたしたちの信仰の中心だと言えるでしょう。そしてそれを「はい」と心から言った時に、恵みが与えられる。それを生きていくための力は、100%主が与えてくださるんですね。何も歯を食いしばって生きることを主が望んでいるだけではなくて、恵みの世界を生きていくように主がわたしたちを招いているのだと思います。
迷うことは多い。このお兄さんになったり、弟になったり、わたしたちはそんなにはっきりしていないですけれども。迷ったり不安になったりしますから、怒りが出てきたりしますけれども。でも最終的にいつも神に向かって「はい」と答えて、信仰の道を力強く歩んでいけるように、特にこの一週間、神様の呼びかけにこたえて歩んでいけるようにこのミサでお祈りしましょう十

 

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第一朗読  エゼキエル書 18章25-28節
  (主は言われる。)「お前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」

 第二朗読  フィリピの信徒への手紙 2章1-11節
  (皆さん、)あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
  《キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。》十

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                      2017 年 10 月 1 日(日)10時ミサ
                        年間 26主日〈緑〉A 年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記