カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-07-31 神の前に積む宝

英神父ミサ説教                       聖イグナチオ教会於                                  聖イグナチヲの祝日

ルカによる福音 12章13-21節 わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」十

  今日のイエス様はいくつかのお話が入っていますけれども、たとえ話をされるわけですね。たくさんの作物がとれて豊作で、穀物や財産を入れる大きな蔵をたてて、食べたり飲んだりして楽しもう。と思っていたお金持ちの人に、神様は言うわけですね。「今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは、いったいだれのものになるのか」
この世のものをいくら貯めたとしても、結局わたしたちは死んでしまう。それよりもイエス様は、神の前に豊かになりなさいと。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」わたしたちは神の前に、キリスト者としてこころがけていきたいと思います。なにがわたしたちにとって神の前に豊かになるのかどうか。それをしっかり見極めながら。イグナチヲのことばでいえば、わたしたちは識別をしながら歩んでいくのが大事ではないかと思います。
今日はイグナチヲ・ロヨラの祝日なんですけれど、回心する前、イグナチヲ・ロヨラは兵士のような生活をしていて、この世的な名誉とか、そういうものを求めていて、戦いに勝利して、名誉とかお金とかそういうものを求めていた人生だったんですね。しかしながら戦争の時に、降伏すればよかったのに、わざわざがんばりすぎて、結局負けてしまって、そのときに負傷してしまい、故郷に帰らざるおえなかった。
そこで、回復するのを待っていたんですけれども、あまりに暇だった。彼は中世の騎士が好きで、騎士として生きていこうという気持ちがあったんですが。騎士物語を読みたいと思ったんですが、信心深い家で全くそのようなものが無い。あったのがイエス様の福音書のまとめのようなものと、聖人伝とそのようなものしかなかった。
最初は全く興味がなかったんですが、聖人伝を読むんです。ドミニコがこんなことをしたと、アッシジのフランシスコがこんなことをしたと、いろいろでてくるのを読んで、だんだん自分もそういうことをしたいと思うようになったんです。
でもその本を置いて、兵士の自分として、また戦いに勝利して勲章をもらって、そのようなことを考えると心が躍る、そういう空想をふくらましたりしていた。またはイエス様に従っていくそのような聖人たちの生き方を考えても喜びがある。あるいは宮廷で仕えることにも喜びがある。どれも喜びがあると感じていたんですね。
確かにわたしたちも、いろんなことに喜びを感じていた。でもだんだんと、イグナチヲはわかってきたんですね。宮廷で仕えて、戦争で勝利することを思いうかべて、こんなにたくさん買って、こんなにお金もうけてと。思ったあとに、喜びがあんまり長続きしない、と気がつくんです。
逆にドミニコがやったとか、フランシスコがやったとか、思いうかべたあとは喜びが長続きする。という違いに彼は気がつくんです。専門用語でいえば霊的識別ということの、一番最初のところですけれど。だんだん彼はイエス様に従っていくというほうが、自分の心の喜びがもっと強いと、はっきりと確認していく。それで彼は結局兵士になって地上的に生きるのをやめた。全てを捨てて、イエス様に従っていく、巡礼者のような生き方を選ぶわけなんです。
神の前に豊かになるということは、自分にとってどういうことなのか、それは一度問い返してみたらいいことかもしれない。わたしたちの心の中にはさまざまな喜びとか、思いわずらいとかいろいろあると思うんですが、なにが本当に自分は神の前に豊かになっていくものなのか、なにが本当に自分の心を喜ばせるものなのか。場合によっては、自分がたとえ病気に直面しても、たとえ明日、命がとられるにしても、それによって消え去らないものは、自分の中でいったいなんなのかということを、問いかけてみることが必要だと思います。
イグナチヲはそれで回心して、ボロボロの服を着てなんのお金も持たずに巡礼の旅にでるんです。でもそれは急に、一朝一夕で聖人になるわけではない。格好は一応、巡礼者風だったんですけれど、心の中は、決心したからすぐ聖人になるわけでもない。実際彼が考えていたように、ドミニコとかフランシスコというのは外側のことだった。裸足で一生涯をすごすとか、一生涯、肉を食べないとか、エルサレムに巡礼するとか。外面的なことにかっこよさを見いだしていて、心の中のことまで、まだあんまりわかってなかったんですね。
それが証拠に、途中でムーア人という混血のようなイスラム教徒と会って、お話しをしていたら、マリア様が処女懐胎、終生処女だった、終生童貞だったとは信じられない、ということを合理的根拠をもとに、ムーア人がいろいろ言うわけです。そうしたらイグナチヲは、マリア様のことを守りたい、と思って必死に反論しようと思うのだけれど、うまくできない。
ムーア人が去っていってしまって、イグナチヲはムカムカして、マリア様の名誉を守れなかったということで心がおさまらない。どうしようと思ったかというと、まだ兵士だったというのが残っているので、ムーア人を殺さなければ気が済まないと。
せっかく捨てた刀を買って、ムーア人を殺しにいくべきか、という気持ちにとらわれるんです。どちらかわからなくて識別できなくて。そして、ロバを放して広い道に行ったらムーア人を殺す。狭い道に行ったらムーア人を殺さないと賭けた。ロバを放すと、ロバがわざわざ狭い道を行ったから、結局殺さなかった。イグナチヲはのちに「神のみ旨だった」という。
イグナチヲも急に聖人になっているわけではなくて、心の中のさまざまなことがよくわからなかった。後半になると正義が、心の中にだんだんわかってきて、本当の意味で神の前に豊かになる。神の道はなんなのかというのがわかるようになるんです。
たとえば今日の福音書の前半が傑作で、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟にも言ってください」とある。遺産相続の問題で、教会へイエス様のところに人が来るんですね。これだけいると遺産相続のことで悩んでいる方もおられると思いますが。わたしもかなり相談を受けます。遺産相続で、もめる人多いんです。今みたいに法律が決まっていても、それでも親に財産があったりしたら、兄弟同士が仲が悪かったりしたら、揉めるんですけれど。それでも自分の取り分が少ないと、気持ちがおさまらないからイエス様のところに来て、なんとかしてください、と言うんですけれど。
イエス様はそのことについて答えないんです。「どんな貪欲にも注意をはらい、用心しなさい」と言うんですね。心の中をみつめなさいと。イエス様は言うわけです。
イグナチヲのことだと、ムーア人を殺すか殺さないか。あるいは遺産相続の、自分の取り分が少ない、といってカッカしているとか。わたしたちは度々、外のことに振り回されている。あの人がああだからだとか、どうのこうのとか。そういうものにとらわれていくならば、わたしたちは大切なポイントを見失っていくわけです。多くの問題は、人間の心の中にある。この場合は貪欲だった。
イグナチヲの場合は、結局はプライドだったと思いますね。マリア様のことも、自分のプライドを傷つけられたことが一番腹が立っていたと思います。わたしたちは識別しなければならない。神のみ旨はなんなのか。まわりがどうのこうの言う前にですね。わたしたちの心がいったいどこにあるのか、神様を中心にして生きているかどうか。あるいは神様の前に立って、なにをすべきかを、わたしたちは問いかけなければならないと思います。
イグナチヲの全体的なことからいえば、あまりチマチマしていなかったということですか。神のみ旨を、ダイナミックに求めていた、ということも大事なポイントだと思います。だからわたしたちも、あまり小さなことで悩むよりは、もっと神のみ旨を求めて、大きくいく。小さな貪欲とか、小さなプライドとか、小さな何かにとらわれているのではなくて、神のみ旨を大きく求めていく。小さな自分を超えて。小さな自分のとらわれとか、自分の執着を超えて、神の大きなみ旨を求めていく。それは心がけたいと思います。
第二朗読でこういうんですよね。「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」本当に求めるべきものを求めていきなさい。わたしたちもイグナチヲ・ロヨラの日にあたって、本当に神の前で豊かになるような大切なものを求めていきたいと思います。
それはワールドユースデイの最後のミサの中で、パパ様の言葉ですよね。外に向かって出かけて行けと。あんまり家の中に閉じこもっていても、気持ちがくすむだけだから、外に向かって大きく歩きだしなさいと。わたしたちもそのような心を大事にしたいと思います。
何が本当なのか、識別をしながら見極めなければならない。それと共に、神のみ旨を求めて、いつも前を向いて、自分の小さな殻を超えて、新たな一歩を歩み出す。そのようなことをできるように。
今、ワールドユースデ―にパパ様と共にミサに預かっている多くの若者と共に、わたしたちがさらに前を向いて神のみ旨を積極的に求めながら、前進して歩んで行けるように、このミサでお祈りしましょう十

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   第一朗読 コヘレトの言葉 1・2、2・21-23

 コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

 第二朗読コロサイ3・1-5、9-11

 皆さん、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貧欲を捨て去りなさい。貧欲は偶像礼拝にほかならない。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

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