カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-09-04 自分の十字架を背負ってついて来る者

英神父 ミサ説教     聖イグナチオ教会 ミサ於「被造物を大切にする世界祈願日」のミサ

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ルカによる福音 14章25-33節 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」十

 今日の福音書はルカの14章、かなり厳しいところだと思います。イエス様に大勢の群衆が一緒について来た。
この大勢の群衆は、ほとんどの人は高みの見物というか、イエス様の何か不思議なわざを見たいとか、単なる噂話をしたいとか、そういうような気持ちで、大勢の人がついて来たんではないかと思います。       
そこでイエス様が振り返って、かなり厳しいことを言うわけです。「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る物でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」イエス様の弟子になるということは、かなり厳しいことであると、はっきりおっしゃっている。わたしたちも、イエス様の言葉をしっかりと受け止めなければならないと思います。
今日の最後のところではこうあります。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」自分の持ち物を一切捨てなさい、という非常に厳しい言葉をわたしたちに投げかけていると思います。 
一切というのは、これはルカの表現ですね。全てとか一切とか、ルカの好む表現ですけれども。わたしたちは、自分は何を持っているのか。あるいはあまりにも持ちすぎるということに、ひとつのとらわれが生まれてくるということは、あるのではないかと思います。
最近、個人的に凝っていて、興味を持って、本を読んだりしてるのは、ミニマリストという人々が、日本の中に増えてきて。ミニマリストとは、日本語で訳したら、最小限主義者という。何を最小限にするかというと、持ち物を最小限にする。宗教的な理由は、ほとんどの人は全くないのですが。
持ち物をものすごく少なくして暮らすライフスタイルが、少し注目を集めている。ミニマリストも平均的になると、持ち物全部が、トランク一つに入るぐらい。引越しには1時間くらいしかかからないとか、物がほとんどない暮らし。ミニマリストにも究極もいれば、シンプルライフぐらいの人もいる。ミニマリストの人の部屋ってほとんど何もない。ガラガラの、修道院のわたしの部屋よりも物がない。(笑)
ミニマリストの人達の感想は何かといったら、物を減らせば減らすほど心が自由になる。しかも時間がたっぷり使えるようになって、生活に余裕が出てくる。逆に物にあふれていたときには、時間もないし、物にとらわれたり、心に平安がないようなものだったのが、意識的に物を減らせば減らすほど、心に余裕が生まれて、しかも時間にまで余裕がでてくる。つまり、いらないことをあんまりしなくていい。部屋はいつもきれいだから、心もすっきりした気持ちで過すことができる。多くのミニマリストの人は、物がいっぱいあったときに、つかめなかった幸せを、逆につかめるようになったという感想を持つ人が多いんですね。
わたしも元々そんなに物がないですけど、それでもやっぱり物を減らすと、気持ちがすっきりするところがあると思います。でもミニマリストが宗教的なところを全くなしに、そのようなシンプルライフと言っているのですが、わたしたちにとってそれは、イエス様からの呼びかけであると受け取ったら、また確かに違う意味が出てくると思います。
そして、いらないものを捨てるだけでは、まだ足りないと思いますね。わたしたちにとって持っている物を、どのように分かち合うのか。自分の物だ、自分の物だと思っているから、心に平安が来ない。
そしてパパ様が、そして世界中の人が警告している、現代の環境破壊も。わたしたち人間の所有欲というか、物を持ってなるべく、自分達の思いどおりにしようとする。そういうような気持ちから、現代の環境破壊の問題に大きく出ている。
わたしたちの持っている物を全て捨てる、ゴミ箱に捨てるんじゃなくて、持っている物をどのように分かち合って、生かして生きていくのかということ。それがわたしたちに問われている。エコロジーを大切にする、被造物を大切にするべきかに、つながるのではないかと思います。
エコロジーを考える一番の出発点は何かといったら、個人的には、自分の体の健康を考えることから、つまり自分の体も被造物だと思います。神様から頂いたもので、自分の命を本当に生かして生きることをするかどうか、そこから考えなければならない。そして自分の命を、本当に大事にしていくことを考えるならば、そこからわたしたちは何を買うのか、何を食べるのか、どのように暮らすのか。ライフスタイルから社会のあり方、どういう事なのか、自分に何ができるのかということを、問いかける必要性があると思います。
 今日の福音書では、二つのたとえ話があるのですが、「まず腰をすえて計算しないものがいるだろうか。まず腰をすえて考えてみないだろうか。」わたしたちの生活、あるいは、わたしたちが、どのように被造物を大切にするのか。一人一人が、腰をすえてじっくりと、振り返って考えなければならないことと思います。十分な塔を建てられるのか。あるいは多くの敵が攻めて来ているのに、十分にそれに対処できるかどうか。塔を建てるとか、兵が攻めてくるとか。
わたしが一番思うことは何かというのは、エコロジーのことでいったら、原発の問題ですね。本当に腰をすえて、百年後とか二百年後のことまで考えて、今の原発のことを再稼動するかどうか。最近の新聞では「もんじゅ」ですね、止めるか止めないか。
やっても止めても何千億円、一兆円以上、続けても続けなくてもかかるわけですから。本当にこういうことを、腰をすえてしっかり考えてから始めたのか、と問われると思います。もちろん国家の政策について、わたしたちは一人一人では大きなことが言えない。皆さんの中には、原発、賛成の方と、反対の方がおられるでしょうけれど。
大事なのは腰をすえて、未来の事まで考えて、環境と未来の日本の子供たちのために、本当にふさわしいのかどうか。長い視点で考えなければ、環境問題は大変な結末を迎えるのは、明らかになってきているだろうと思います。
その出発点は、小さな所有欲とか、執着心、今が良ければそれでいい、ということではなくて、未来を見すえて、今をどうしていくかという事を、考えなければならないと強く思います。
その反対の生き方は何かというと、ヘッジファンドとよばれる、お金儲けだけを考える。彼らのモットーは三つなんです。今だけ、自分だけ、お金だけ(笑)今が儲かったら将来どうでもいい。自分だけ儲かったら周りが損してもいい。お金だけ儲かったらそれでいい。全く腰をすえて考えていない、この世的な生き方の典型だと思います。今だけ、自分だけ、お金だけ。わたしたちも、もしかしたらそのような考え方で物事を考えることがあるかもしれないですけど、それは腰をすえてじっくり本当にみんなのためになるのか。神様の喜ばれることなのかと考えることとは、全く違うだろうと思います。
 パパ様から、今日は被造物を大切にする日として、祈りを捧げましょう、との呼びかけですが、単に祈ったらいいという次元を超えていると思います。わたしたちの生活を見直して変えていかなければならないと、はっきりとパパ様もおっしゃっているし、多くの人が、多くの有識者がそのように言っている問題ですから。 教会としても何をするかというのを考えなければならないですが、みなさんも一人一人本当に環境を大切に、神様から与えられている自分の命、家族、社会、自然界の命。本当に大切にしていけるのか、しっかり腰をすえて、わたしたちの歩む道を祈り、考え、そして行動していけるように、
そのためにこのミサを、心を合わせてささげたいと思います十

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  第一朗読 知恵の書9・13-18

「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。地上のことでさえかろうじて推し量り、手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、まして天上のことをだれが探り出せましょう。あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか。こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、人はあなたの望まれることを学ぶようになり、知恵によって救われたのです。」

 第二朗読 使徒パウロのフィレモンヘの手紙9b-10、12-17

 愛する者よ、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロは、監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

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