カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-09-11 神の天使たちの間に喜びがある

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 ミサ於   

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ルカによる福音 15章1-32節 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」十

 今日の福音書は、有名なたとえのお話だと思います。見失われた一匹の羊を捜しまわって、そして見つけて、肩にかついで帰ってくる。そういう羊飼いの姿と、神様の慈しみ、イエス様の姿が、かぶっているという事ですね。
これは有名な絵で、みなさんの聖書と典礼のパンフレットの絵も、その見失われた一匹の羊を肩にかついでいる、良い羊飼いの絵ですよね。これはイエス様の姿を描いている、古代の絵の中では一番古い形です。元々、初代教会ではあまりイエス様の姿を描くことは好まなかった。良い羊飼いぐらいがその姿として描かれている。
今年の、慈しみの特別聖年の、ここにあるマークですね。見失われた一匹の羊、見失われた一人の罪人を、肩にかついでいるイエス様の姿ということです。わたしのこのカズラの前にも後ろにも、今年何回もご覧になったこの構図です。これはこのたとえ話から来ているのは間違いないと思います。
この羊は小さかったのであろう、大人の羊だったらさすがに肩にかつげない。見失われた一匹の羊は小羊だったんだろうと思いますね。だから肩にかついで、羊飼いは喜んで帰ったということです。
肩にかつぐというのがどんな感じなのか、よくわからない。肩にかつぐのとはちょっと違いますけれども、みなさんも子供の頃にお父さんとかに肩車をしてもらった、体験がある方も多いんじゃないかと思います。
子供の時というのはあまり高い所は見えない、低いところしか見えないですよね。お父さんとかに肩車してもらったら、視野が広がるような。お父さんすら自分の下になるのだから、高い所から見おろすわけで。肩から乗っていて、見渡す風景というのが子供の時には全く違う。そういう意味で新鮮な体験のような、それを覚えておられる方もいるんじゃないかと思います。
低い所と高い所では、だいぶ感じが違う。羊がなんで迷ったのか。小羊だと思いますけれど、見える範囲が狭いというか、下の方しか見えていないから、道に迷ってしまう。肩にかつがれたときに、上から見るので、違った目で見ることができる。そういうことはあるんじゃないかと思います。
わたしの話をすると、割と美術品とか見るのが好きで、よく美術展とか行くんです。ある時、日本橋の有名なデパートが二つあって、そのデパートのだいたい7階、8階に美術展やっている事が多いのです。
その日は、日本橋の二つのデパートの上でやっている美術展を見ようと思ったんです。日本橋はほとんど行くことがない。新宿とか東京ならある程度はだいたいの地理はわかるのですが。
その一つ目の美術展に行って、スマホの地図を見て、近いから歩いて行けると思い、でも慣れていないから、ビルばっかりですからね。道も似たような道で、どこなのかもわからない。こちらの方に歩きだしたら、全然違う方向にいっていたみたいで、歩いているうちにもっと迷い出て、結局、小伝馬町という地下鉄の駅が出てきて、日本橋にいるはずが全然違う方に行ってしまった。喫茶店に入って、地図をよくよく見てみたら、真反対の所に来ているのがやっとわかった。それで歩くのがしんどいから、地下鉄に乗って、また戻ったんですけれど。
実際のところ見失ったり、迷子になるっというのは、視野が狭いというか、小さいというか、近視眼的にしか見れない時に、結局よくわからない。地図を見るっていうことは高い所から、鳥瞰図(ちょうかんず)、上の方から見るから、それでここで間違っていたんだなとか、ここでこういうふうにいけばいいんだなとか、やっぱりわかる。
イエス様が肩にかついで物を見た時に、さっき言ったように、低い所からではなくて、高い所からの視点がある。そうすると全く違うかたちで、同じ出来事を見つめることが、できるのではないかということですね。ただ単に道に迷うぐらいだったら、スマホを持っている人なら、わかる事なのかもしれないですけれど。
わたしたちが罪を犯したり、道に迷ったり、何かよく分からなくなってしまうのは、やっぱり小羊だからですよね。小羊で下の方しか見えていない。あるいは近いところしか見えないから、結局そこにとらわれて、全然違う方向に行っていることすら、気づかなかったりする。自分の小さなことにとらわれたり、誰か人の小さなことにとらわれたり。全体が見えないので、それでとらわれたり、罪を犯したり、何か無用な苦しみの中に、わたしたちは入ってしまうことはあるのではないかと思います。
この悔い改めるということは、イエス様がわたしの視点を高い所に持ちあげてくださる。そうすると神様の視点の高い所から見れて、ここで自分は詰まっていたんだなとか、ここで自分はひっかかっていたんだなとか。こっちの方に行ったらいいんだなとか、実は良くわかると思うんです。
悔い改めは、ギリシャ語で「メタノイヤ」といいます。元々の意味は「考えを超える」ということなんです。自分の小さな考えより、もっと大きく考えるというのが「メタノイヤ」の元々のギリシャ語的な意味なんです。自分の近視眼的な小さな視点でものごとをみて、ああでもない、こうでもない、ではなくて、神様の大きな視点。神様のもっと広く、客観的に自分を見つめるような、そのような立場に立った時に、わたしたちは、本当の意味で悔い改めることができる。つまりここが間違いで、こうした方が良かったんだとか。ここで引っかかったんだから、こっちを、というような事が、わたしたちの悔い改めの大きな恵みだと思うんです。
ここにあるマーク、慈しみの特別聖年。よく見てみたら、この小羊の代わりに、アダムというか、罪人をイエス様がかついでいるんですけれど。目玉が何個あるかというと、三つしかないんです。ここに二人いるんですけれど、目玉は三つしか描かれていない。なんで三つしかないのかといったら、真ん中の目は、イエスの目と、罪人の目が、一つになっているからなんです。だから目玉は三つしかこの絵には描かれていないんです。
今、言っていることと同じで、自分の視点で見るんではなくて、イエス様の視点で物事をみる。イエス様のものの見方と、自分のものの見方を重ね合わせた時に、はじめて悔い改めることができる。自分の道をまた正しい方向性に軌道修正していく、そのような視点というか、何かがわかるから、わざと目玉がかぶさって、この絵では描かれているわけです。
だからわたしたちはたえず、神様ならそういうことをどう見るのか。イエス様だったら自分の今の立場をどのようなもので見るのか。神様の視点というのは大きいんですよね。大きくて広くて寛大で、しかも客観的で広々としたところから自分自身のことをみる。そのような視点です。神様は小さなことにこだわっているようで、こだわっていない。でもこっちだよということも、はっきり示してくださる。
そのような神様の視点、イエス様のものの見方で、自分自身を、自分のまわりを、自分の世界をみて、わたしたちがたえず軌道修正して、迷ったところから、神様の導きの方向性に、絶えず道を、少し軌道修正しながら、それこそがわたしたちの悔い改めの基本だと思います。
そのような恵みを願ってこの一週間、神様の視点で歩んでいけるように、このミサでお祈りしましょう十

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  第一朗読出 エジプト32・7-11、13-14

 その日、主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 第二朗読 第一テモテ1・12-17

 愛する者よ、わたしは、わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

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