カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-03-12 わたしもあなたを罪に定めない

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会 四旬節黙想会於  

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ヨハネによる福音 8章1-11節 そのとき、イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」十

 今日の福音書はヨハネの8章の、姦通の女性を赦すお話です。神の慈しみを味わうために、この福音はぴったりではないかと思います。姦通というのは、不倫という事ですね。夫婦以外の人と関係をもつ。少し前まで、日本でも外国でもそうですが、だいたい死刑だったんですね。この時は石打ちの刑ですが。だいたいどこの文化でもそうでした。これは共同体の関わりを壊してしまう、重い罪として考えられていた。
誰でも知っていた掟ですから、この女性が現行犯で逮捕されたときに、自分はだめだと覚悟したと思います。当時は石打ちの刑にされても仕方がない、残酷ですが。ところがこの女性は、たまたまでしょうが、イエス様のところに連れていかれ、罪に定められなかった。本当は殺されるところが、殺されないで、罪が赦されてしまった。この女性がどう感じていたかは計り知れないが、完全に自分の罪を認め、そして罰も受けなければならない。自分の命もこれでもうだめだと思っていたところ、神殿の境内に連れていかれて、イエス様の前で赦されてしまったわけですね。この女性がどれほど救われた気持ちになったか。想像していない予想外の結末になったわけです。
イエスが最後にはっきりと「わたしもあなたを罪に定めない」と宣言され、赦しの言葉を頂くわけです。この女性がこのあと、どうなったか書いてはないですが、回心したのは間違いない。全ての犯罪者がどうかわからないですけれども、囚われの人生の中で、あるいは罪を犯すこと自体が苦しみを生んでいるわけですから。この女性が自分の人生に満足していたとはとても思えない。何も書いていないから、どういう人かもわからない、これがマグダラのマリアかどうか、現代の聖書学者は違うと言い、分からないわけですが。この女性が誰であろうと、最後の刑よりも、それまでの苦悩というか葛藤というか、良心の呵責も感じたでしょうし、夫婦以外の人と関係をもつのは、そんなに幸せな人生を送れているはずがないわけで、大いなる葛藤と囚われの中にあったんだろうと思います。イエス様の罪の赦しの宣言として、刑を免れただけでの話だけではなしに、過去の古い自分を断ち切り、新たに出発する大いなる恵みを頂いたであろうと思います。だからこのようにこのお話が記されている。
これは朝早く神殿の境内で、裁判というものは朝早く行われていたのですが、イエス様を裁こうとしていた。姦通の女を連れてきてイエス様を裁こうしたのに、逆にここに集まった律法学者やファリサイ派の人たちが裁かれたわけです。神の裁きと赦しの不思議さといえるかもしれない。
わたしたちが神様の前に立ったときに、何を裁かれて、何を赦されるのかも、わたしたちが考えている基準とはだいぶ違うのではないか。
この話を読んで思い出したのが、二十年ぐらい前に私が若い神父だったときにやっていた一つの活動は、拘置所訪問ボランティアでした。他の神父様やシスターと一緒に、小菅の拘置所で犯罪を犯して逮捕され、裁判を受ける前の人たち、特に外国の人たちは支援が全くないので支援団体をつくり、そういう人たちのところへ行って面会をして、必要なことは助けたりした。私の担当はフィリピン人だったんですけれども、よくその人の裁判の傍聴に行ったりした。刑務所に行ったら家族しか会えないので、拘置所にいるときだけ支援できるんですね。
そのフィリピン人は麻薬所持で、麻薬組織の売人だと疑われた。何度か裁判を傍聴しました。そういう裁判につくのは国選弁護人ですけれども、やる気のない、ちゃんと弁護しない人もいるんですが、たまたまその人についたのは、若い女性でなりたての新米弁護士だったんですが、すごく熱心な人だった。法廷の問答のやり取りが、わたしが聞いていてもポイントを外していて、裁判長からも、このように質問しなさい、と叱られていているようなベテランではない感じだったんです。でも、すごい熱意で検察側への反証を論理的に説明して、結局最後の判決で無罪が出たんですね。本当にその時は驚きました。判決が無罪で出た途端、フィリピン人の彼は号泣していましたね。多分彼はやっていなかったと思いますけれども、裁判は有罪が多く、有罪の見込みがあれば立件されるので、ほとんど無罪がない。たまたま無罪が出て、福音の喜びを強く感じました。
なぜそれが生まれたかというと、そのうまくないけれど、すごく熱心な新米弁護士が被害者の立場に立ち、どこかにずれはないか、検察の言う事を研究して、徹底的に調べてそうでないと反証をした。裁判長は弁護人にイライラしていたけれど、弁護人は大切なポイントを掴んでいって無罪を出す。尽力して無罪を得たわけですね。
ヨハネの福音書に戻ったら、誰が弁護人で、誰が裁判長かもわからない。本当はファリサイ派の人たちが裁くはずが、全く逆転してしまって、裁かれる人が別になってしまった。裁かれる人が裁かれずに、イエス様を通して現れる、神の大きな罪を超える、神の大きな慈しみがはっきり現れていると思われます。罪を犯していないと言っている、律法学者やファリサイ派に人たちは、恥ずかしくなってそこから立ち去らざるをえなかった。彼らが裁かれてしまう裁判になってしまった。
わたしたちの心の中に慈しみに反することもいっぱいあると思います。なんで石打ちの刑にするかといったら、公開処刑なんですね。当時一種の娯楽だったからですね。人が殺されるのを見て、みんなが喜んでいた。ばかにしたり、野次飛ばしたりしていた。
もちろん今の日本にはないですが、タレントがちょっと不祥事を起こしたら、よってたかって石を投げるわけだから、レベルが違うけれど、似たようなものではないかと思います。タレントがどうしようとどうでもいい話だと思うんですけれども。教会の中でもなんかあるとみんなで石を投げる。イエス様が裁かれるのはそういう態度こそ裁かれる。慈しみのなさを裁かれているわけですから、むしろイエス様は何を示されているのか。人を赦し立ち上がらせる。その恵みを与えることこそが、神の慈しみですから。
わたしたちが今日の黙想会で、あるいは日頃の生活で神の慈しみをどこかで感じることもあると思いますが、それは逆にわたしたちが神の慈しみを人々に伝えていく。そういう使命と役割がある。それが間違いないことだと思います。
フィリピン人の裁判の時に、不器用でしたが、その女性弁護士さんは素晴らしいと思いました。特にテクニックでもなく経験でもない。その人を守ろうとする、慈しみの心から、誠実にちゃんと調べて、それを訴えることですよね。そのようなことで一つの赦しが起こった。一つの奇跡であるのは確かなことですよね。
誰かが神の慈しみを現わさなければ、イエス様の慈しみは現れないと思います。ここに集まった一人一人が、神の慈しみを現わすように呼ばれているのも間違いない。みなさんの小さな働きの中でこそ、赦しや回心や立ち直りのきっかけが、みなさんになることは多々あるんじゃないかと思います。
慈しみの特別聖年というのは、自分自身が慈しみを味わうことよりも、神の慈しみを多くの人に知らせる、そのような機会になることのほうが、もっと大事ではないかと思います。
わたしたち一人一人が小さなかたちで、罪人や苦しんでいる人や助けを必要としている人の、糾弾する側ではなく、神の慈しみの弁護人のような、助ける側にまわって、そのような行いや言葉を少しでも現わすことができるように、特に慈しみの特別聖年として、願いたいと思います十

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 第一朗読 イザヤの預言 43・16-21

 主はこう言われる。海の中に道を通し恐るべき水の中に通路を開かれた方戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し彼らを倒して再び立つことを許さず灯心のように消え去らせた方。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせわたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。わたしはこの民をわたしのために造った。彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。

 第二朗読使徒 パウロのフィリピの教会への手紙 3・8-14

 皆さん、わたしは、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。十

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