カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-05-01 主がもたらす平和は

英神父ミサ説教                          聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音14章23-29節(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

 今日の福音書はヨハネの14章、イエス様が十字架にかかる前の、いわゆる告別説教の中のイエス様の言葉が朗読されました。この中で、イエス様はわたしたちに一つのことを、いくつもあるのですが、一つのことを約束して下さってます。イエス様はこう言うのですね。「わたしは平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。」ということですね。これは復活した主の恵みのよって、わたしたちにこの平和が与えられているということですね。イエス様の復活の恵みを味わうということは、この復活の恵みの中で主の平和を生きていくということですね。さらにイエス様は言います。「わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」と。この世が与える平和ではなくて、イエス様から与えられる平和であるというわけですね。わたしたち一人一人どのようなことを平和というか、心の安らぎというか、そういうものとしているのかということなのですけれど、まあ、これは少しふりかえってみてもいいことではないかと思いますね。簡単に言えばこの世が与える平和というのは一体どういうものなのか。たしかに健康であってですね、仕事もうまく行って、お金もある程度あったら、たしかにある種心の平安があるのかもしれない。でも、それは、神様が与えてくださる平和とちょっと違うところがあるかもしれないですね。やはりちょっと収入が足らないとか、お金がないとすれば、非常に不安。仕事がなかったりとかですね、非常に不安になったりすると思いますが、お金があるからそれで平安が与えられるかどうかということ、これもまた保証がないものではないかなと思います。
わたしの好きなベトナム人のお坊さんでティック・ナット・ハンという人がいるのですけれど、ベトナム人なのですが、ティック・ナット・ハンがアメリカかなんかに行ったのかな、金持ちの国のアメリカに行って、それで、かなり大きな豪邸のような家に招待されて、その家に行ったのですけれど、洗面所を借りたときに、洗面台の横に大きな瓶で睡眠薬と精神安定剤がおいてあったという。それを見て彼は、こんなに大きな家に住んでいるのに、結局睡眠薬と精神安定剤飲まないと、眠れないくらい心に安定感がないのか、この人はと思って、非常に心が暗澹たる気持ちになったというふうにある本に書いてありましたが、実際のところお金があるから平和があるかといったら、またこれは別の問題だと思います。
もちろん今の日本が戦後70年間戦争せずにですね、平和であるということは、これはもう本当に大きなお恵みとして感謝しなければならないことですが、70年間続いたこの平和な社会の中で、本当に心が平和かというと、ある意味心の病気の人も多いし、自死する人も、そんなに減っていると、少しは減っていますが、案外たくさんおられるわけで、結局平和がないとふうに言えるかもしれない。もちろん戦争で死ぬ人がいないのはお恵みだともちろん思いますが、それでも本当にわたしたちに平和があるのかどうなのか、それはわからないわけですね。
皆さん一人一人はどこからこの本当の平和を得ているのか、信仰者として、それは問いかけて見られれば大切なことではないかというふうに思います。今日の福音書によるならば、やはりこの世が与えるわけではない平和というのは、やはりイエス様から、神様から、イエス・キリストのつながりから与えられるものであることは、間違いないと思いますね。だからイエス様がこの世と違う方法で与えてくださるというわけですから、わたしたちはその平和を頂いて、その平和をやはり生きていくように呼ばれていると思います。
同僚の一人の神父さんがいて、外国から来た宣教師の人なんですけれど、外国から来たら日本語を勉強しなければならないし、来たときは日本語を勉強し、2年間日本語だけ勉強して、それから中間期と言ってですね、ちょっと実地で働くわけですけど、彼の場合は、当時はイエズス会の中学高校に送られて、それで、英語を教えなければならなかったんですね。でも、彼はまあ、もちろん今はそうですけれど、アメリカ合衆国からとか、イギリスからとか、ほとんど人が来ないので、つまり英語が母国語ではない外国人がほとんどなわけなんですけれど、その人も別に母国語が英語ではないけれど、ともかく、外国人だということで英語を教えさせられたというか、英語を一生懸命教えるのだけれど、日本の教育システムとかいろいろ違いますので、英語もうまく教えるのが難しいし、生徒が彼をなかなか受け入れることもできないし、日本語もまだ上手ではないから教職員の人ともコミュニケーションがうまくとれないし、結局全然うまくいかない。このままやったら心の平安がないし、まったくノイローゼになってしまうと彼は思ったんですね。それで、休みの日に東京、ここに管区本部というのがあるので、そこに管区長に会いに行って、このまま自分が続けたら、もうちょっとだめになっちゃうと、続けられないから、全く平安も何もない彼なのでだめだと言いに来たのですね。そうしたら、管区長は「いや、わかりました。」と。でも、学期の途中で代えることはできない、先生をですね。だからある程度区切りまで働いてもらって、やっぱり人事異動というものは急には代えられないので。だから、しばらく待って欲しいと言われて。彼はほっとした気持ちで電車というか新幹線に乗ったのですね。でも、その帰りの電車の中で、彼は考えてみたら、自分は何のためにイエズス会に入ったのか、あるいは、どういう気持で入ったのかということを、つらつら思い出したというのですね。で、わたしもちょっと忘れていましたけれど、入会の前にいろいろな質問があるのですが、そのうちの一つがイエス様にどこまでもしたがっていきたいか、しかも、人からあざけられたり、蔑まれたりするそのイエス様とともに歩みたいかという、そういう質問がどうもあったみたい、ちょっとわたしは忘れちゃっていたのですが。というのがあるんですね。で、彼はそのようなイエス様に従いたいと、そういう決意をもって、イエズス会に入会した。そして今非常に困難の中に置かれていて、生徒ともうまく関われないし、教職員の人ともうまく関われない。でも、考えたら、今蔑みや辱めを受けたイエス様に自分が従っている、つまり自分が願ったことが実際のところは叶えられているのではないか、ということに気がついたのですね。その途端、ものすごい平安な気持ちが主からの平和が与えられた。そして、自分の駅に着いて、その修道院に戻ったときには、心は完全に平和な気持ちになって、それで、着いたらすぐにもう一回管区長に電話して、こうこうしかじかになったので、続けさせてくださいと言った。それで、派遣され期間、かれは無事に与えられたミッションを果たすことができたというのですね。でも、もちろん、その心に平安があるから、急に英語を教えるのが上手になったとか、急に日本語が上手になってこのコミュニケーションがうまくとれるようになったということは、もちろんないわけですよね。つまり、現実は何もすぐ変わるわけでは全くないけれど、でも、自分がイエス様とともにいるということが、はっきりとわかったので、完全に心は平安な気持ちになって、それから後は、現実は変わらないけれど、平和の中で、まさしく主が与えて下さった平和の中で、任務が与えられた期間を過ごすことができたというふうに言っていて、彼は立派な司祭として働いていますけれど、主が与えてくださる平和というのは、そのようなものでもあると思いますね。
一人一人やはり体験が違うから、それはその人なりに特別に頂いた平和かもしれない。でも、皆さん一人一人に主が平和を与えてくださる、わたしたちがイエスとともに歩むならば、イエスに従っていくならばですね。イエスと心を分かち合っていくならば、皆さん一人一人にも、平和が与えられる。その平和は、お金がもうかったから何かとか、仕事がうまくいったとかいかなかったとか、そういうことと、関係がない、もっと深いところに与えられる平和であると思います。そのような特別な平和がわたしたちには与えられている。その平和を生きることができる。その平和を人々と分かち合っていくこともできると思いますね。イエス様が約束してくださったこの平和をわたしたちが一人一人生きていくことができるように、その平和に気づき、その平和を生きていくことができるように、このミサでお祈りしたいと思います。日本でも、外国でも、地震の被害があった人は、とてもじゃないけれど、直ぐそのような平和な気持ちにはならないでしょうけれども、そういう人々にも平和が与えられるように合わせて祈りを捧げましょう+                   Dictation by Hiroshi K.

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 第一朗読 使徒言行録 15・1-2.22-29

(そのころ、)ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
 この問題について協議するためにエルサレムに集まった使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」

 第二朗読 ヨハネの黙示録 21・10-14.22-23

 一人の天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
 わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。十

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