カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2016-05-29 食べ物を与えなさい

英神父 ミサ説教                   聖イグナチオ教会 ミサ於    キリストの聖体

ルカによる福音 9章11b-17節  神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。十

 今日の主日は、キリストの御体を記念する祝日にあたっています。カトリックの洗礼を受けている方々は、ミサにあずかるたびに、ご聖体をいただくことができる。大きなお恵みだと思います。
わたしが初めてミサにでたのは、自分は普通の仏教の家だったので、特にキリスト教には関係なかったんです。たまたまミッションスクールに入ったので、キリスト教に接することになったのですが、初めてミサにあずかった時に、一番驚いたのは、ミサのことは全くわからなかったのですが、ミサの最後のほうになると、神父さんがみんなの前で食べたり飲んだりしているのを見て、ショックを受けたというか。
お寺ではお祈りのときには、食事と関係ないですね。お経を唱えたりして、食べる飲む全く関係なしに、終ったあとで、食事をする。礼拝中に食べたり飲んだりするのが違和感があって、みんなの前で食べたりしてるから、日本人の感覚としては、はしたないというか、TPOが間違っているんじゃないか。一番最初はそう思いました。
キリスト教のことをよく勉強して、信仰者になって、ミサの中でご聖体をいただくことが、一番大事だということは、あとからだんだんわかるようになりました。ミサの中でイエス様をいただくことができる。それが大きなお恵みであると強く思うようになりました。
わたしたちは毎日ごはんを食べる。人間としては当たり前のことですが。わたしたちは神様そのものを、食べものとしていただくことができる。大きなお恵みです。普通の宗教では当たり前のことですけれど、神様なり仏様なり、心の中でつながるとか、お祈りをしていて、神様のお恵みうけるとか、触れるとか。問題点は、心の中で神に触れるのは、きわめて主観的だから、感じることもあるし、感じられないこともある。抽象的にしか神様に触れられないこともあります。
わたしたちは食べものとして、イエス様ご自身をいただくことができる。目に見える形になって、わたしたちは神様をいただくことができる。食べる恵みをいただいている。大きなお恵みだと思います。ミサに来られれば、一週間の行いが良くても悪くても、どんなに傷ついていても、どんなに元気でも、等しくご聖体の恵みをいただくことができる。その恵みの中にわたしたちは生きている。キリスト教の一番の本質、神様は愛である、というのがはっきり形としてあらわされているのが、ご聖体だということですね。それをわたしたちは、食べているわけですから。
ミサの一番中心で、今日もご聖体としてのイエス様をいただいている。逆に考えれば、神様の謙遜さ。食べものになって、今日もわたしたちに食べられている。神様の無限の愛ともいえるし、毎回のミサで謙遜に、食べものにまでなって、わたしたちに食べられている。その恵みを受けていることを、あらためてしっかり思いおこしたいと思います。
今日の聖書の箇所は、パンの増加の奇跡ですね。多くの人にイエス様がパンを増やされた。五つのパンと二匹の魚しかなかったんですけれど、男だけで五千人。女性、子供を入れたら一万人以上の人が、五つのパンと二匹の魚で満腹したんですね。現代の人がここを読むと、イエスがパンを増やして、こんな奇跡を本当にやったのかと思いますね。
パンの増加の奇跡は、奇跡としてあまり大したことはないと思います。ご聖体の奇跡にくらべれば。五千人、一万人ではなくて世界中でミサがささげられている。いったいどれくらいのお恵みがご聖体として、霊的な糧として、人々に分け与えられているのか。世界中で日曜日だけで1億人以上はいっている。神の恵みが無限に広がっているわけですね。平日もある。二千年間やっているわけですから、これからも続けられるでしょう。
五千人か、一万人が満腹したどころの話では全くない。このような奇跡が毎回のミサで実現しているわけですから。世界中で司祭の手を通して。どれぐらい莫大なお恵みなのか、それこそ奇跡だと思います。聖書のは小さな奇跡だと思います。莫大な神の恵みが、ミサを通して、いつも分け与えられているんです。ご聖体の秘跡は、多くの人に分け与えられている。それをしっかり心に止めましょう。
この中には洗礼を受けたての方もおられるでしょう。新鮮な気持ちでご聖体をいただく方もおられるでしょうし、何年もいただくと、感激とか恵みを忘れがちかもしれないですが、一週間を生きるためのエネルギーを、糧をいただけるわけですから、この大いなる恵みに感謝して歩みたいと思います。当然このお恵みは、自分だけのためだけではないです。わたしたちが一週間、仕事や家庭や様々な場で、人々に分ち合うために、このお恵みは与えられている。ひとりひとりが、ご聖体のお恵みを生きていくように呼ばれているわけです。
イエス様は言うわけです。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」十二人の弟子たちに向かって言うわけですけれど、わたしたちもそうだと思います。いただいたお恵みを感謝して、受けとって、そのお恵みを一週間の中で人々と分ち合っていくように。
残ったパン屑の籠を合わせると十二籠。十二弟子に合わせて籠が残されているわけですから。今度はわたしたちは恵みをいただいて、それを分ち合うように呼ばれている。それを心にとめたいと思います。
恵みは自分のためだけど、人々のためだと思います。みなさんが日常生活で恵みを人々と分ち合うならば、パンの増加の奇跡は、さらに広がるわけですね。日本でミサに来ている人は、全人口にくらべたら、ごくわずかですけれど、わたしたちが十二使徒のように人々に恵みを分ち合うなら、さらに多くの人に神の恵みが、分ち合われているんだと思います。
わたしたちは恵みをいただくとともに、恵みを分ち合う使命も与えられている。その両方をしっかり受けとめながら、ご聖体の神秘を受けとりたいと思います。
愛というのは具体的です。人を愛するというのは抽象的ではない。イエス様はパンとしてわたしたちに食べられる。それをいただいたわたしたちも、日常生活の中で、具体的に愛を示すように、それがご聖体の神秘のわたしたちに与えているメッセージだと思います。
ご聖体の神秘を、わたしたちが生きていることができるように、このミサでお祈りをいたしましょう十

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 第一朗読創世記14・18-20                                                                                                  その日、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

 第二朗読 使徒パウロのコリントの教会への手紙11・23-26

皆さん、わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

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