カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-01-11 底の底まで沈んだ後に

英神父 ミサ説教                 主の洗礼の祝日 鎌倉黙想会於 

 マタイによる福音書 3章13-17節 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた十

 今日が主の洗礼の祝日にあたっています。クリスマス、降誕祭が終わって、今日から年間の普通のカレンダーが始まるわけですけれども、イエス様の最初の活動は、洗礼を受けることから始まるわけですね。ヨルダン川で洗礼者ヨハネが洗礼を授けていて、たぶんイエス様は共鳴をして、一種の洗礼運動を行っていたわけですが、罪の悔い改めのための洗礼を行っていた。そこにイエス様も合流されて、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。印象深いものだと思います。イエス様が洗礼を受けたあとに、天が開いて「これはわたしの心に適うもの。わたしの愛する子。」という御父の声がした。そこからイエス様の公生活が始まるわけですね。
なんのために洗礼を受けるか。悔い改めの洗礼ですね。罪を犯したのを赦してもらうために。ユダヤ教で水で清めることを「ミクベ」というんですけれども、そのミクベという儀式を、洗礼者ヨハネが、神社で手を洗うのと同じように、悔い改めの清めの儀式を、わざわざヨルダン川でダイナミックに行っていたわけですね。
洗礼者ヨハネの洗礼運動は、当時の人々にとって印象的なものであっただろうと思います。神殿に入る前の儀式的だった悔い改めを、本当の罪の赦しの悔い改めに刷新させたかたちで、よみがえらせたわけですね。そこにイエス様が共鳴されたであろうし、イエス様は自ら洗礼を受けられた。
でも疑問はあるんですね。なんでイエス様は悔い改めの洗礼を受けられなければならなかったか。だから洗礼者ヨハネも戸惑うんですよね。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」というわけですが、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは」というんですけれども、なにが正しいことなのか。イエス様は罪を犯さなかったから、悔い改めの必要性は全くなかったのに、悔い改めなければならなかったのか。それははっきりしていて、罪人と連帯するために、イエス様は洗礼を受けられたということしかないわけですね。でもイエス様の本当の罪の連帯といったら、十字架上の贖いになるんですね。だから水に沈むっていうところは、十字架上のイエス様の奉献とつながっている。水から上がるというのは、復活につながるわけですね。水に沈んでそこから上がられる。十字架で自らの命を捧げられて、そこから復活されたからこそ、天が開いて愛する神の子であるという恵みをイエス様に、そして全ての人に神の子となる資格を与えられた。深い神秘だし、最初がそれだったということは、結局最後の十字架と復活に一直線でつながっているのが、救いの神秘だったということは間違いないと思います。
当然わたしたちもイエス様と共に、洗礼という水に沈む必要性があると思います。当時は浸水洗礼、体ごと水に沈み、そこから出てくる。
ヨルダン川というのは不思議な川で、世界で一番低いところを流れている、海抜マイナス400メートルぐらい。エルサレムの神殿は海抜800メートルくらい。ヨルダン川は海抜マイナス400メートルくらいだから、段差が1200メートルくらい。だからエルサレムのところが決壊して、地中海に流れたらヨルダン川は全部水没する。低い所に流れているヨルダン川の底に沈むというのは、一番低いところまで沈むということなんですね。一番底まで沈んだからこそ、一番上の天が開くという。十字架と復活の神秘をそのまま現わしていると思われます。底の底まで沈むというのは徹底的な謙遜でもあるし、自分の全てを捧げるということでもある。罪の決定的な清め、悔い改めということも入っているし、古い人を脱ぎ捨てる、あるいは本当に完全に死んで、復活することによって天の恵みが、聖霊が、父なるものの声がして、神の子となる恵みが与えられるわけです。わたしたちが神の子となる資格が与えられるということが、主の復活なしにありえない。だからこそわたしたちも、度々沈まなければならないと思います。古い自分に死ぬ、あるいは自分の囚われを手放す。あるいは徹底的な謙遜と、従順で沈むところまで沈む。自分の全てを捨てる。だからこそわたしたちはそこからイエス様と共に復活して、神の子となる。大いなる恵みを味わうことができる。
復活の恵みを生きるということは、十字架無しにはあり得ないわけだし、でも十字架が、苦しみだけで終わるわけではない。そこで自分を捨て去った時に、大いなる神の恵みの復活と、聖霊の恵み、そして新しい人として神の子としてくださる恵みが与えられる。
この大いなる神秘ですけれども、この八日間の黙想をしていることも、水に沈んで古いものに死んで、罪が赦されて悔い改められて、あらゆる執着をおいて古い人に死んで、この黙想が終わる時には新しい人として、復活の恵みのうちに歩んで行くということですね。
それは神の子としての大いなる喜びと、励ましの内にということだと思います。今回の黙想で得た恵みということも、天が開いた、そこから注がれた恵みだと思います。イエス様が開いてくださったからこそ、わたしたちも天が開けているわけですね。そこからわたしたちは恵みを得て、また歩むことができるわけですけれども、それが復活した主と共に生きていくことにこそ、本当に実感できる恵みそのものだと思います。
この主の洗礼の恵みに合わせて、わたしたちが新しい人として、復活の恵みに歩んでいけるようお祈りしたいと思います十

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第一朗読 イザヤ予言 42章1-4、6-7節

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
 わたしが選び、喜び迎える者を。
 彼の上にわたしの霊は置かれ
 彼は国々の裁きを導き出す。
 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
 傷ついた葦を折ることなく
 暗くなってゆく灯心を消すことなく
 裁きを導き出して、確かなものとする。
 暗くなることも、傷つき果てることもない
 この地に裁きを置くときまでは。
 島々は彼の教えを待ち望む。
 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
 あなたの手を取った。
 民の契約、諸国の光として
 あなたを形づくり、あなたを立てた。
 見ることのできない目を開き
 捕らわれ人をその枷から
 闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

第二朗読 使徒言行録 10章34-38節

(その日、)ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです十

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                                                         2014年1月12日 鎌倉黙想の家於 八日間黙想ミサ