カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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20160124 神の救いの実現は今この時

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

ルカによる福音書 1章1-4節、4章14-21節 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられ。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれてい。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた十

 今日の福音書はルカの4章のところ。イエス様がこれから活動を始められる最初の時に、ナザレの街道で説教された場面です。イエス様の活動の最初なので、今日の説教はご自分の使命をどうとらえていて、何を行いたいかを語っているような箇所です。
この世のものと比較すると、アメリカの大統領だったら就任の時に演説するような、自分の職務を始めるにあたって、どのようにしていきたいのかということを語る。メシアとしての就任説教であるといわれている箇所です。
何をイエス様がされたかったか。ここに書いてあるとおりに、「貧しい人に福音を告げ」ると言われている。しかも「捕らわれている人に解放を」「圧迫されている人を自由に」する。目が見えない人を目が見えるようにする、自分が何をするのかを語られています。
日本の首相だったら所信表明演説にあたる。でも人間がこういう説教をしても、どれぐらいできるか分からないわけで、人間だから当たり前だと思います。オバマ大統領が説教された時は素晴らしい説教をされたけれど、多くの人がその後がっかりしたのも無理はない。人間だからこうすると言ったって、できない事は多々ある。わたしたちだって、こうしたい、こうしますと言ったって、そのようにできない事が多々あるのは、人間として当たり前の事だろうと思います。
でもイエス様は、人間でもあったけれど、神様であるので、イエス様が宣言されたことは空約束ではない。こうすると言われたことは、難しかったからできませんでした、ということはないということです。そこにイエス様の宣言の力強さ、重みというものがあり、それをわたしたちはしっかりと受けとめなければならない。
今日の説教の最後では「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃるわけで、この言葉を聞いた時に実現したと、イエス様がはっきりと語られている。しかも今日と書いてある。ものすごく確信的な言葉であると思います。この今日という言葉は、ルカの福音書で度々出てくる特徴的な言葉であります。これはわたしたちは真剣に受けとめなければならない。人間の言葉なら、右耳から入って、左耳から出ていってしまいますが。
イエス様の言葉は実現すると言われた以上、わたしたちは実現にあずかることが出来るし、あずからなければならない。しかも二千年前ではない、みなさんがこの言葉を聞いた今日という日に、みなさんの中で実現すると、わたしたちは信じて、今日、イエス様の解放の言葉の実現にあずかることが出来るし、あずからなければならないと思います。
イエス様の言葉は今日、実現していくために、いつもわたしたちに語られている。人間の言葉ではないから、神の言葉だからですね。今日というのは毎日毎日の今日だと思います。別の言葉で言ったら今日一日を、神の言葉の実現として、毎日毎日を受けとっていけるかどうかですね。今日というのは毎日毎日ですから、一日一日を大切に、神様の恵みの中を生きていく。もちろん日によっては、うれしかったり、退屈な日もある、ほとんどは当たり前の毎日かもしれないですけれども、その一日一日の中に神様の救いの実現を、少しでも感じながら、それを受けとって、今日という日を、わたしたちは過ごしていくかどうか、わたしたちの心がけにもかかっていると思います。なんとなく一日を過ごしていくのか、今日という日に神様の救いの力が、働いていることをしっかりと受けとめて、わたしたちは歩んでいくのか。イエス様が今日、実現したと、宣言されている言葉を、生きたものとして、実現していくその約束として、わたしたちは受けとっていくということ。これがキリスト者としての、お恵みだと思いますし、責任であると思います。今日一日を神様と共に、恵みを生きる日にするかどうかということだと思います。
今朝はまだ7時のミサですから、夜まで時間があると思いますけれども、その今日を神の救いの実現の日として、生きていくと心がけるならば、今日一日は大いなる輝き、恵みとして受けとれるのではないかと思います。
今日は日曜日の今日で、明日は月曜日の今日、になるわけですから、一日一日を今日、神様の救いの実現の日として、わたしたちが生きていく。毎日毎日を新たな心で、毎日毎日をくださる神の恵みを、その日にしっかり受けとって、味わっていくということ。これができるならば、わたしたちも信仰生活の日々を新たにされて、日々いきいきとしたものとして受けとることができる。
さらに言うならば、イエス様が実現したと聞く、わたしたち信者は、今日一日、協力しなければならないと思います。イエス様が貧しい人に福音を告げ知らせる。それはわたしたちが貧しい人として、今日福音を聞くという日でもあるけれども、当然わたしのためだけでもないわけですから。それに合わせて、わたしたちがイエス様のメッセージを周りの人々に告げる。イエス様の救いの実現に、毎日毎日小さなかたちでいいですが、協力をしていく。それはさらに、イエス様の救いが実現することになると思います。わたしたち一人一人には多くを話す口が与えられているし、働く手も与えられているわけだし、歩くこともできるわけだし、さまざまなかたちで、イエス様の救いの実現に、今日一日、協力できる。それも毎日毎日の積み重ねだと思います。
できることは本当に小さなことだし、この社会に大きな闇の力があって、苦しんでいる多くの人がいるのも事実です。なかなかイエス様の救いの実現が、全部に広まっているともいえないわけです。誰がそれを広めるかといったら、わたしたちしかいないと思います。あるいは善意の人々だと思います。
わたしたちがこのイエス様の救いの宣言をむなしいものとして、終わらせないようにする責任は、わたしたちの側にもあるのではないか。わたしたちがこの救いの実現を、今日一日自分自身が受け入れ、わたしたちが協力者となって、このイエス様の宣言がより確かなものとなるようにわたしたちがイエス様の救いの実現を意識して、毎日を生き、働くことが出来るように、神様の恵みを願いたいと思います十

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第一朗読 ネヘミヤ記 8章2-4a、5-6節 , 8章10節

 (その日、)祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
 書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立(った。)エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。
 (次いで、レビ人が)神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。
 総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 12章12-30節  

 (皆さん、)体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
  《足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。》
 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
  《神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。十

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