カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-01-25 一番小さい者だから

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マルコによる福音 1章14-20節 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った十

 今日の福音書はマルコの1章、イエス様が宣教活動を始めて、最初の弟子たちを選ばれるところですね。シモン、アンデレ、ヤコブとヨハネ。彼らはみなガリラヤの畔で漁師をしていて、そしてイエス様に呼ばれて弟子となるというところです。聖書に出てくる人物は、神様が望んで、役につくというか、王様であろうと預言者であろうと、あるいはマリア様であろうと弟子たちであろうと、人間の望みが先ではなくて、神様が仕事をするように呼ばれるわけですね。
現代的に言えばこの弟子の4人もスカウトされたような。スカウトは誰かがよく見て、この人には才能があると見いだしてその職業にスカウトすることがある。
イエス様は彼らの中にどういう可能性があって、この4人を選んだのかは、案外謎だと思います。イエス様の能力の中でわたしが一番疑っているのは、スカウトの能力というか、見る目があったら、もっと立派な12人を選ばれたと思いますけれども、あまりに頼りない人たちばかり選ばれているわけで、イエス様はなんのためにこの人たちを選ばれたのか、気になるところだと思います。
昔フィリピン人の神父様の黙想会に出たことがあるんですけれども、その神父様はフィリピンで、共同体をつくったり、グループをつくったり、本を書いたり、有名な神父様だった。その神父様には兄弟姉妹が10人いた。そのうち神父様になったのは彼だけで、他の9人は結婚したりした。お母さんがだいぶ年をとって弱くなった時に、10人のうち一人が、お母さんに「兄弟のうち誰を一番愛しているか」ときいた。そういう質問はしない方がいいと思いますけれども。そしてお母さんが「神父になっているあの息子を愛している」と答え、他の兄弟は、やっぱり神父になったし有名だからと思った。お母さんに「なぜですか」ときいたら「10人の子供の中で体が一番弱かった息子だから。小さい時は病気ばかりして、いつも大丈夫かと心配していたから、その息子を一番愛している。」と。神父だからとか有名だからではなくて、兄弟で一番体が弱くて、子供のころからこの子はどうなるだろうと思っていたから、その神父になった息子を一番愛しているとお母さんが答えたと、その神父様が語った。
神様の心も同じだろうと思います。立派だから愛するのではなくて、欠点だらけだからこそ、神であるイエス様が心を配っている。
たぶんこのペトロにしろヨハネにしろ、出来が悪いからイエス様が選ばれたと考えたほうがいいんじゃないかと思います。わたしたちは結局そうだと思います。立派だから洗礼を受けて、招かれてクリスチャンになったのではなくて、わたしたちは弱くて、欠点があって、貧しい存在だから、神様が見ていられなくて、この人はクリスチャンにしないとダメになるんじゃないかと思って、わざわざ呼ばれたのではないかということですね。
入門講座とかやっていると、洗礼を受けるかどうか、この時期に悩まれていて、一つの悩みは自分は立派ではなく、ふさわしい人間ではないから、まだまだ洗礼はできませんと言うんですね。だからわたしは洗礼を受けなさいと言うんです。立派で出来た人間なら、あなたは洗礼を受ける必要はないですと。つまり自分で頑張って立派にやっていけるなら洗礼を受けて神様の助けはいらないわけですから。むしろ自分がダメな人間でうまくいかないからこそ、わたしたちは神様に呼ばれるし、だからわたしたちは洗礼を受けて、クリスチャンとして歩むように呼ばれていると思います。
自分はなんで神父になったのか時々考えていて、高校、大学は私立のクリスチャンの学校でしたが、わたしよりも成績が良く、品行方正の人もいっぱいいましたし、リーダーシップをとってまとめるのがうまい人もいました。自分は平均的な人間で秀でるものはないのになんで神父に呼ばれたのか。人間的に考えたら理由はゼロなんですね。ある時に「神様、なんでですか」と一生懸命たずねたら、同じですね。私が貧しく弱い存在だから、神父に選んだと神様が言われたように感じました。
わたしたち全ては、ペトロやヨハネのように召し出されている。立派でそれ相応にふさわしい方ではなくて、むしろ弱くて欠点だらけな存在だからこそ、神様がわたしたちを呼んでくださっている。だからその呼びかけに不完全であっても、100%でなくても、できる限りこたえていく。自分の弱さや捕らわれを置いて、呼んでくださった神様に誠実に感謝して、できる限りわたしたちがイエス様に従って、わたしたちができる限りの奉仕と、クリスチャンとしての生き方を歩んでいけるように、このミサでお祈りしたいと思います十

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第一朗読 ヨナ書 3章1-5、10節

  主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 7章29-31節

  兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです十

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                     2015年1月25日(日)
                      カトリック麹町教会 主聖堂於
                        B年 年間第3主日
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記