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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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2017-02-05 神様の味つけ

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マタイによる福音書 5章13-16節 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」十

  今年は福音朗読がA年ということで、最近はイエス様の山上の説教が朗読されています。今日も有名なところで、地の塩、世の光でありなさいと、主がわたしたちに呼びかけられているところです。地の塩といっても、日本人は海から塩をとるので、どういうふうに塩をとるか、はっきりとはわかりませんが、味をつけたり清めたり保存したり、いろいろなかたちでわたしたちに必要である、ということは間違いないと思います。
アメリカで勉強していた時に住んでいたイエズス会の共同体では、わたしは神父でしたが、ほとんど全員が神学生で、コックさんがいなく、代わりに当番で料理を作っていたんです。イタリア系のアメリカ人で料理上手が二人いて、どんなに美味しいのが食べられるか、楽しみにしていました。でも全く料理に興味がないアメリカ人もいて、必ずミートソーススパゲティでした。一人アイルランド系アメリカ人がいて、やる気はあるけれどもいつも何かが足りない。ある日、バジルソースのスパゲティが出て、食べていても今ひとつ、味が足りない気がして美味しいとは言えませんでした。その時にテーブルの上にあった塩をかけたら、味がぴったりになってものすごく美味しく食べれて、塩といったらその事を一番に思い出します。
塩がちょっとあるだけで、料理の味が全く違うわけですね。一つの料理にほんの少し塩が混ざるだけで、素晴らしい味に変わります。そしてわたしたちはそのような存在で、そうするように呼ばれているわけです。それは自分にとってどのような事なのかを、振り返ってみてもいいのではないかと思います。
7日に大阪で高山右近の列福式があるので、わたしも教会を代表して参加するつもりでいます。高山右近の生き方をみていたら、素晴らしいところは多々あります。高槻は京都と大阪の間ぐらいの所で、そこの城主だった時に右近がしたのは何かというと、ミゼリコルディアの組を作ったんです。ミゼリコルディアというのは、去年やったいつくしみの特別聖年の、いつくしみという意味です。聖書では憐れみと訳されていますが、そのミゼリコルディアの組を彼は高槻にもってきたんです。今でいうとボランティア活動のグループで、困っている人を助けるような、ヨーロッパで始まった活動をするグループを、日本でも始めました。その活動のリーダーを選びますが、リーダーを選んだだけではなくて、お父さんのダリオと右近の二人が、自らミゼリコルディアの組でいろんなことを実践するんです。
特に何をやったかというと、マタイの25章36節に「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」6つの困っている人を助ける御言葉にプラス、亡くなった人を葬るという、7つ目の活動が中心でした。
戦国時代ですから人がいっぱい死んでも、ほっとかれるか、日本にもユダヤにも死体は汚れているという考えがあって、死者の扱いは被差別部落の人に当時から仕事を強いていました。カトリックの考えはイエス様の教えから、汚れなんかないわけです。だから父ダリオと右近は特に身寄りがなく亡くなった人のご葬儀を盛大にやったんです。それは高槻の人にとっては、天地がひっくり返るくらい驚いたと思います。ミゼリコルディアの組の人だけにやらせたわけではなくて、城主自らが民の葬儀を出したのが、多くの人に深い深い印象を与えたのは間違いないと思います。
今の日本の仏教が葬式仏教になっているといわれているようですが、一つの理由が、切支丹たちがお葬式をやったからだといわれています。当時の仏教は偉い人にしかお葬式をしなかったんです。貧しい人はほったらかしで、その人たちを切支丹は手厚く葬りました。そういうところから仏教が逆にあとを追って葬儀をしたのではという説もあるのですが。
高山右近は葬儀だけではなしに、戦乱で男がたくさん死んでいくので、やもめと孤児がいっぱいいるわけで、その人たちも世話をしたり、貧しい人に着物を与えたり、そういうことが記録に残っているわけです。
領内のトップ二人がそのような地の塩のような事をするので、影響力がすごかったわけです。織田信長が本能寺の変で殺されたあと、京都から大阪の付近は信長の支配下だったので、各地で圧迫されていた民により、暴動略奪が激しくなって騒然としていました。右近も信長の手下だったんですが、高槻領内では、全く暴動が起こらなかった。それは右近の善政がしみていたから、少しの事では気持ちが荒れなかったんですね。まさしく高槻の地は塩味が効いていたから。神様の味がしみていたところなので、そういう時でも暴動も何も起こらない、平和な中で心を落ち着かせて暮らすことができたわけです。
高山右近は立派で逸話も多々ありますが、わたしたちはそこまですごい人間ではないけれども、でもわたしたちは地の塩になるように呼ばれているということ、それは心がけたいと思います。たとえば小さなグループで、誰かが何かで落ち込んでいる時に、一人が冗談を言うだけで場がなごんだりとか、それだって地の塩かもしれない。あるいはみんながやる気がない時に、一人の人が黙々と働くことによって、そのグループ全体が引き締まることはあると思います。料理だったら塩は、ひとふりか、ふたふりぐらいでいいわけですから、みんなで大きい事を多くしなくていいわけです。
みなさんがおられる、暮らしている場で、人との関わりの中で、あるいは社会の中で、たくさんではなく、ほんのちょっとするだけで味が良くなり、神様の国の働きが出てくるということはあるだろうと思います。それをするようにわたしたちは呼ばれるということ、それを心がけたいと思います。
高山右近や立派な切支丹の先輩たちがいましたが、わたしたちができるのは、日常の生活の中で小さなことを積み重ねていくことです。わたしたちがそのように地の塩であり、小さな光である灯火のような、そのようなものによって、わたしたちの周りを少しでも、神様の味付けのようなものが広がっていく、そういうものになれるようにこのミサでお祈りしましょう十

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 第一朗読 イザヤ書 58章7-10節

飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
あなたの傷は速やかにいやされる。
あなたの正義があなたを先導し
主の栄光があなたのしんがりを守る。
あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。
軛を負わすこと、指をさすこと
呪いの言葉をはくことを
あなたの中から取り去るなら
飢えている人に心を配り
苦しめられている人の願いを満たすなら
あなたの光は、闇の中に輝き出で
あなたを包む闇は、真昼のようになる。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 2章1-5節

 兄弟たち、わたし(は)そちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした十

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                     2017年2月5日(日)10時ミサ
                      A年 年間第5主日
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記