カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-02-11 命の木

英神父 ミサ説教              いやしのミサ 聖イグナチオ教会 マリア聖堂於

マルコによる福音 7章14-23節  イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」十

 2月11日はルルドの聖母の祝日にあたっています。フランスの田舎のルルドという所で、ベルナデッタという女の子にマリア様が現れ、そしてそこに泉が湧くようになり、その泉の水によって多くの人がいやされるという体験をするようになって、150年ちょっとたちますけれども、今やルルドは大きな巡礼地になり、多くの人が行くようになりました。
病気を抱えてる人がいやしを求めて、ルルドに巡礼されるのがカトリックの一つの習慣になっています。そのルルドの水は、ただでいくらでもくれますし、病気の人にルルドの水を飲ませてあげたりする。そういう習慣もカトリックの中にありますから、ルルドの聖母の記念日に、いやしのミサでお祈りするのはふさわしいと思います。
しかしながら、マリア様がベルナデッタに現れた時に、特にいやしのことを言ったわけでもく、主に三つのことを言って、一つはここにお御堂を建てなさいということと、二つ目は泥水を飲みなさいと言ったんですね。三つ目が罪人の悔い改めのためにお祈りしなさい、と言ったんです。マリア様はいやしの事は一言も言っていないです。ベルナデッタがここを掘って泥水を飲めと言われて、それを掘ったら泥水が出てきて飲んで、もっと掘ったら清い水が出てきて、それが始まりでした。最初は泥水を飲み、掘っていくと清い水が出て、いやしが始まりました。
わたしたちが病気のいやしを願う時に、マリア様のメッセージとベルナデッタの態度を考えさせられるような気がします。マリア様の一番のメッセージは何かというと、罪人のためにお祈りしなさいという、悔い改めということを重要視して、メッセージを言っているわけですね。その結果としていやしの恵みがあとから来ると述べています。
今日の福音書もイエス様が「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」衛生的な外のことではく、宗教的な問題で、イエス様は心の中をみつめなさい。本当に人を汚すのは心の中から出てくるのだと、おっしゃるわけです。もちろん、病気の際は適切な治療を受けなければならないですが、わたしたちが一番にみなくてはならないのは、わたしたちの生き方、信仰のあり方、自分自身の心のあり方を見つめる。そこから出発しなさいと、イエス様は言っている。そして、マリア様もそのように言っているわけです。
病気になったら混乱することもありますが、自分自身を見つめ直すということ、それは一番大事なことではないかと思います。
ベルナデッタは泥水を飲まされても、いやされたわけではなく、その後に修道院に入っても病気のままで、結核で若くして亡くなったんです。マリア様に「この世ではなく後の世で幸せな者にしてあげます。」死んだあとにお恵み与えますと直接に言われ、他の多くの人はいやされたけれども、ベルナデッタ自身はいやしの恵みに与かっていないんです。
でもベルナデッタは神様に全てをささげたので、パリにある彼女の遺体はいまだに腐らないんです。生きていた時の体がそのまま残っているんです。
わたしたちが調子の悪い時とか苦しい時とかにこそ、自分の生き方、信仰を見つめ直すチャンスだと思います。何が大事なのかを考え直したり振り返ったり、神様に心を向けて、信仰を持って歩むとはどういうことなのかを問い直すことであろうと思います。
今日の第一朗読は創世記のところで、エデンの園にアダムとエバがいて、善悪の知識の木とその中央に命の木があったんです。一番大事な命の木が真ん中にあり、本当の命があふれている、そこを一番の中心においてあるからです。命の木には完全な調和と病気も罪もない世界になるわけです。このあと善悪の知識の実を食べてしまうので、全てが狂っていくという話になってしまう。
何千年か前の話になってしまうんですけれども、非常に象徴的です。わたしたちは本来は命の木を中心に生きているんです。そのとき健康でお互い愛しあって、自然とも調和して生きていける。命の木を中心にしないとおかしくなる。なぜできなかったのかは、善悪の知識の木に偏ってしまった。それは今で言ったら、わたしたちの執着心とか科学技術をおかしく使ったり、現代文明に捕らわれたり、お金に捕らわれたりするので、命の木からわたしたちは、ずれているわけです。すると当然病気もするし、心も病むし、罪とか争いが生じてくるのは、当然とも言えるかもしれないです。
去年まで、わたしは鎌倉に住んでいて4月からこちらの東京にいますけれど、住んでいるだけで病んでいる気がする。鎌倉にいる時は自然に囲まれていて、人間的なんですけれど、この東京のど真ん中にいると、散歩していてもビルばっかりが並んでいて、あたたかさは何もないような、人間の命も何も感じられないビルが、延々と続いているわけで、命の木がどこにもないように感じます。わたしも住めと言われたからいますが、命の木を中心に生きていないから、ここにいると病むと思います。わたしたちの生き方そのものが、ずれているんですね。一見、小ぎれいだけど、何もないんですよ、あたたかさとか命とか、人間のつながりがないものがあふれていますから。鎌倉が恋しくて、そこは人間の生きていくところと感じますけれども。
命の木からずれたら、わたしたちの生き方は、さまざまなかたちで狂うんです。その悪い影響をなんらかのかたちで、みなさんも背負っていることをは間違いないと思います。わたしも体が弱くて、この一週間ぐらい寝込んでいましたけれども。どうもバランスがとれない、だからこそ神の恵みの中でわたしたちの生き方を、絶えず見直さなければならない。もちろん限界はいろいろありますけれども、心の持ち方とか暮らし方とか、何を食べるかとか誰と付き合うかとか、どのような社会の中でわたしたちが生きていくか。命の木を中心とした生き方に、わたしたちは向っていくためにさまざまな事を工夫しなければならないと思います。病気であることは一つの徴ですから、振り返って、自分の生き方とか価値観とか、どのように家族と暮らしていくのかとか、全てのことを見直す中で、わたしたちの生活の中心に、命の木を置くことができるようになるんです。
だからマリア様が悔い改めの罪だけではなしに、生き方を悔い改めていく。自分の生き方の全体をどのようにしていくかを、問いかけられるわけです。
ルルドの水を飲むこともいいですが、わたしたちの生き方はもっと全体的なことです。その恵みも力もわたしたちは与えられているわけですから、わたしたちは絶えず命に向かって、最終的には永遠の命に向って生きているんですから、いろいろな事に捕らわれて、病気する必要性もないし、罪に捕らわれて罪を犯す必要はないんです。
だからこそわたしたちは悔い改めて、心の持ち方を変えて、ライフスタイルを変えて、価値観を変えて、人との付き合い方も変えて、わたしたちは神の国に向って、一歩一歩、歩んでいく。そのような生き方を、一人一人に問われていると思います。だから今の中で何ができて、どのようにするかを絶えず見直して、振り返っていく恵みが与えられていると思います。
ルルドへ行くと、グロットという泉が湧いてくる所が素晴らしくて、マリア様の清い愛がものすごいんです。でもベルナデッタは泥水を飲んだところから始まっているのだから、どこからかわたしたちも始めなければならないんです。うまくいけばある所から恵みの力がいただける。そういうものがわたしたちにも与えられている。祈りを持って、悔い改めを持って、そして困難な事を変えようとするところに、しっかりとフォーカスしていくなら、わたしたちはいつも変わっていくことができると思います。それは本当の救いの恵みです。それはわたしたちみんなに与えられているものですから、こういう機会に自分のことを振り返って、神の恵みのうちにどのように歩んでいけばいいのか。それは工夫する中で、ちゃんと神様が示してくださると思います。楽かどうか、みなさんも泥水を飲まなければならない事も、あるかもしれないですけれども。
わたしたちに与えられている神様の大きな恵み、それは無尽蔵の本当に素晴らしい恵みですから、それにわたしたちが絶えずそれに向って、一歩一歩、希望を持って、やわらかな心で歩んでいけるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 創世記 2章4b-9.15-17節

  主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。  しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。
 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」十

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                     2015 年 2 月 11 日 (水) いやしのミサ
                           年間第 5 水曜日 B年 ルルドの聖母                                                                                                             カトリック麹町教会 マリア聖堂於  
                               イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記