カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-02-14 手を差し伸べて

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

福音朗読 マルコによる福音 1章40-45節 そのとき、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た十

 今日の福音書はマルコの1章、イエス様が病気をいやすお話が続いているんですが、今日のところもいやしのお話です。重い皮膚病を患っている人、という訳に現代はなりましたけれども、ハンセン病の人が多かったんだろうと思います。昔はらい病とよばれた、皮膚の伝染病です。戦後に特効薬ができて、現在では治る病気になったので、何の心配もないのですけれど、特効薬がみつかるまでは、大変な病気だったんです。薬がないので皮膚の感覚がマヒして溶けるような、指もなくなり、髪の毛も抜け、顔も変わっていく、それも伝染病なので、古代からつい最近まで、東洋でも西洋でも非常に恐がられた病気ですね。
旧約聖書にもはっきりと書いてありますけれども、共同体から出なければならないわけです。人にうつしてはならないから、隔離されて生きなければならない、大変な重い病気であるし、差別され共同体から切り離される、かわいそうな人たちでした。その人たちがイエスのところに来て「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」といやしを願うわけです。そうしたらイエス様が深く憐れまれ「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」るわけですけれども、旧約聖書、律法から考えて、そういう人に触れることは完全に禁止でした。絶対触れたらダメで、他の人が触れないように離れて暮らしている、そういう人たちなんです。
日本でも確かそうでしたか、江戸時代とかはハンセン病の人はみんなが近づかないように、鈴のようなものを鳴らさなければならなかった。その人にイエス様が触れたというのだからすごいと思います。もちろんイエス様は神だから力が働くわけです。
イエズス会に入ったら修練者は、当時はだいたいハンセン病施設で1カ月くらい働くんですけれども、病気が治られている方々ですが、薬を飲んだ時期により容体が違うわけですが、わたしはとても触れられなかった。でもイエス様が触れられたというのは、神の憐れみの心は、はかり知れない。
その後なんで治った体を祭司に見せるかというと、当時保健所のようなものがなかったから、祭司に治ったことを確認されたら、共同体に戻れるんです。イエス様がこの人に触れられたことで、共同体にも戻れた。
イエス様は人が避けることまでされた。わたしの皮肉ですが旧約の神様は神経質な神ですから、汚れたものに近づけない、日本の神道に似ている。清い者しか神の前に立てない。それはわたしたちの気持ちもそうで、神から遠く離れ、罪を犯していたら、とても神の前には立てない。清い者だけが神様の前に行って触れることができるという考えとは全く逆です。イエス様はそういうものに触れて、いやしてくださるのですから、恵みのすごさを思います。
そしてそのイエス様がわたしたちにも触れてくださる。わたしたちがどんなに罪を犯して混乱していても、苦しみや傷を背負っていても、社会から除者にされているように感じていても、他の人から全部見捨てられているとしても、イエス様はそばに来て、触れてくださり、いやしてくださる、そういう方だいうことです。このイエス様の本当の憐れみの心に、わたしたちは信頼して、わたしたちもいやしの恵みを受けなければならないと思います。
そしてプラス、わたしたちも他の人の苦しみに、その人の心に触れなければならないだろうと思います。わたしたちも手を差し伸べて触れられていく、それもイエス様の望みだと間違いない。どうしようもないというところまでイエス様は触れてくださるから、わたしたちも触れなければならない気がします。
話しながら思い出しましたが、ひと昔前はハンセン病の施設は絶望と苦しみと、社会から見捨てられた人々の生きているけれど地獄のような。有名なのはダミアン神父様がハワイの島で世話をされて、最後は彼もハンセン病にかかって亡くなった方がおられました。。
また、ある国でシスターが村から離れたハンセン病患者の共同体に働きに行った。そこの人たちはほとんど自暴自棄の絶望的な気持ちで将来も何もない、悲しみと怒りの中で暮らしていた。そのような状況の中でもニコニコして周りの人に親切にしたり助けたりして、絶望感や怒りに捕らわれていなくて、平安でいる一人の青年がいました。そのシスターはなぜ彼だけはそうできるのかと思って、一日の生活をみていたけどよくわからない。彼だけ元気でいる秘密が分からないので、シスターは彼に聞いたら「このような状況の中であなただけはなぜ、ニコニコと心の平安が保てるんですか」その若者が「では、夕方わたしと来てください。」と言って、シスターは聖年と村が少し見えるところに行くんです。そうしたら村はずれの一番端の家の窓から、女性の顔が見えるんですね。離れているからごく小さく見えるんですけれど、その女性のニコニコした顔が見える。そして青年が「彼女はわたしの妻なんだ。わたしがハンセン病にかかってここに放り込まれて、社会を隔絶したけれど、彼女は村はずれの一番近いところに住んでいて、夕方のその時間だけ、話もできないけれども、ニコニコしてお互いの愛を確認する。それがあるから、自分はここにいても、ニコニコ笑っていることができる。」と言ったというんですね。
その若い奥さんですけれども、イエス様の心ですね。手を差し伸べて、触れてくださる、という心を彼女は生きていた。だから青年はそれを支えにすることができたので、絶望的な中でも愛と喜びをもって生きていた。とそのシスターが言っていました。
わたしたちもみんなそうだと思います。わたしたちが他の人から、神様から手を差し伸べて助けられている、そしてわたしたちも場合によっては誰かに手を差し伸べてその人に触れるような、そこにいつもいやしの奇跡が起きます。神の恵みの働きが、そういう時にこそ起こるんです。どんな苦しみの中にいても。自分自身がそれを体験することがあるでしょうし、みなさんを通して神様のいやしの力が働く。わたしたちはイエス様の心を受けとめながら、それを分ち合っていくことができるように、このミサでお祈りしたいと思います十

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第一朗読 創世記 3章16-19節

 神は女に向かって言われた。
 「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
 お前は、苦しんで子を産む。
 お前は男を求め
 彼はお前を支配する。」
 神はアダムに向かって言われた。
 「お前は女の声に従い
    取って食べるなと命じた木から食べた。
 お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
 お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる
 野の草を食べようとするお前に。
 お前は顔に汗を流してパンを得る
 土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。
 塵にすぎないお前は塵に返る。」

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 10章31節-11章1節

あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい十

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                       2015 年 2 月 14 日(日)
                      B年 年間第6主日
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記