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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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2017-02-26 神と共に今日を生きる

英神父 ミサ説教                        聖イグナチオ教会於

マタイによる福音書6章24-34節そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」十

 今日の福音書もイエス様の山上の説教の一部分のところです。ここもかなり有名なところだと思います。思い悩むなと、野の花や空の鳥をよく見なさいとイエス様がおっしゃっています。わたし自身はイスラエルが好きというか、何回か巡礼に行っているんですが、この山上の説教をしたところが教会になっていて、巡礼地の一つになっています。真冬に2回ほど行ったのですが、真冬でも野の花が咲き乱れているんです。空の鳥もいっぱいでさえずりもすごいんです。真冬でもですよ、一年中そうです。イエス様がそこで野の花を見なさいとか、空の鳥を見なさいと言ったのは、指さしながら言ったんですね。青空教室で山や丘の野原に座って、指をさして野の花を見なさいとか、空の鳥を良く見なさいと説教されたところです。
だからみなさんも思い悩みとか思い患いが多い時は、近くの野の花とか空の鳥を眺めてみたらいいのではないかと思います。この教会に住んでいますけれども、よく雀とか来て眺めたり、道路に面しているところには植栽グループが花を植えてくれて今もきれいに咲いています。
そういうのを眺めてみたらいいのではないかと思います。というのは多くの人は悩んで思い患い、何を食べようか何を飲もうか、あるいは仕事の事とか人間関係の事とかそういうことで頭がいっぱいで、野の花とか空の鳥とか見る余裕がないんです。ここに集まって来た人々は明らかに思い患いがある人が集まって来ていますね。この何を食べようか何を着ようかというのは、おしゃれとかグルメの話ではなくて、実際に食べるのに困っていた人々です。着るものがなくて困っている人がここに集まってきていた。その人々の思い患いは、明日のごはんをどうしようかとか、着るものがボロボロで着替えがないとか、そういうことで悩んでいた人々が集まっていました。その時にイエス様が野の花とか空の鳥を見なさいと言いました。つまり神様の恵みがどのように注がれているか、今の自分で心がいっぱいだったら、神の恵みは飛んじゃうわけですよね。だからこそ野の花や空の鳥を実際に見て、神の恵みがどれ程のものかということを思い起こしなさいとイエス様が言っておられるわけです。みなさんの中にも思い患いや悩みがある人は、明日の朝にでもちょっと野の花とか空の鳥を眺めていただいたらいいと思います。
神の恵みを思い出してどうしなさいとイエス様が言うと、最後のところですが、「明日のことまでは思い悩むな。明日のことは明日自ら思い悩む。」ということですね。今日の午前中は中高生にミサをしていて、聖書も同じ箇所ですが、明日のことまで思い悩むなとは、明日の宿題までしなくていいということではなくて、宿題は今日しなければならないですね。明日の事を全然考えなくていいというわけではないです。でも今日することをしなさいと、逆に言えば明日の悩みを今日引きずる必要性はないということです。
特に中高生ぐらいだったら受験で希望した大学とか高校に行ける行けないとか、大きな悩みを抱えている人も多いんですけれど、みなさんの中でも明日の事が心配でという人がいるかもしれない。でも大事なことは明日ではなくて今日だというわけです。今日を大事にしなさいとイエス様が言っておられるわけです。これは本当に大事な事ではないかと思います。
今日は東京マラソンで、市ヶ谷あたりを午前中通ったみたいですけれども、前にマラソン選手で有名な君原選手という方がいて、年配の方は知っておられるでしょうが、彼は独特のフォームで走る選手です。トップアスリートにしてもフルマラソンを走るのは苦しいわけで、特に彼も後半は苦しそうに走っていました。40何キロを走ると思ったら、できるかできないかと不安で、苦しいから彼はどうするかというと、あの角までとにかく走ろうと。走っていってそこまで来たら、今度は郵便ポストまで走ろうと。そこまでいったら次のお店のある所まで走ろうと。つまり目標をどんどん縮めて、やっているうちにゴールにたどり着くわけです。
だから明日を思い患うなかれというのは、今日やることを今日の内にやるというか、今日一日の苦労を背負って生きる。明日の苦労まで背負って悩む必要性はない。明日は明日の苦労があるわけですけれども、それを今日になった時にその苦労をわたしたちが背負えばいいわけです。
その日の苦労はその日だけで十分で、わたしたちは今日やることを今日の内にやる、それでいいというわけです。明日の苦労は明日すればいい。多くの人は過去を引きずっていますから、どうだったああだったとか失敗したとか傷つけられたとか、過去の苦しみを今日まで持ち越しているから結局は苦しいし、逆に未来の明日の仕事がどうなるとか、明日は行かなければならなくてとか、過去を思い出したり明日を心配するから、苦しみが増えて身動きがとれなくて、今というのがすっぽり抜けちゃうとかがわたしたちにはあると思うんです。大事なのはマラソン選手と違うわたしたちは、神様と共に今日一日の苦労を背負って、今日一日を精一杯誠実に生きる。苦しみがなくなるわけではないですが、神の恵み、神様から支えられ、今日一日の苦しみ、課題を背負って神と共に誠実に生きる。それがどんな苦しみだろうとどんなに退屈な毎日であろうと、その積み重ねしかないです。昨日のことまで考える必要性はないです。今日一日一日それを神の恵みの中でどのように誠心誠意生きていくかということです。一日が長ければ半日でも、お昼まで頑張るとか、中高生でいうと、この1時間だけ頑張れば、特にお昼すぎの5、6時間目を今日1日ではなく、この1時間だけ耐えようと。次の時間その次の時間の一時間だけ。あるいはその後の部活の時間だってその時だけ心を込めて過ごしましょうと。
わたしたちは今を大切にして生きるということです。だから野の花や空の鳥も今日一日を生きているだけです。昨日や明日の心配をしているわけではない。今日一日を精一杯に神の恵みの中で花を咲かせている。今日一日を神の恵みの中でさえずったりしているわけです。わたしたちもそうだと思います。今日一日一日だけが短ければこの一週間の次の日曜日まで。大きな苦しみだって毎日担っていけば、いつの間にか変わっていくことがあると思います。あるいは平凡で退屈な毎日だと思っていても、今日一日を大切にするならばそこに神様の輝きを喜びを見いだすことができるのではないかと思います。だからこそわたしたちは、今与えられているこの時間この場の中で、今の自分自身が直面しなければならない、抱えていなければならない問題があればそれと共に今日一日を過ごしていく。その積み重ねの中でわたしたちはさらに神の信頼の恵みの内を歩むことができると思います。
わたしたちにイエス様が思い患うな、思い悩むなと言っておられます。そのイエス様の言葉を心に刻んで、主と共にこの一週間、一日一日を大切にして歩んでいけるようにこのミサでお祈りしましょう十

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第一朗読 イザヤ書 49章14-15節
シオンは言う。
主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 4章1-5節
 皆さん、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。十

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                      2017 年 2 月 26 日(日)18時ミサ 
                        年間 第 8 主日 A年
                        カトリック麹町教会 主聖堂於
                           イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記