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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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2014-02-11 世の光なのだから

英神父 ミサ説教                    いやしのミサ 聖イグナチオ教会於

 マタイによる福音 5章13-16節 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」十

 今日の福音書はマタイ5章、この前の日曜日に読まれたところで「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエス様がわたしたちにおっしゃってくださっています。5章の山上の説教の最初の箇所のところです。ここで大事だと思うのはあなたがた、つまりわたしたちですけれども、「あなたがたは地の塩」だということと「世の光である」といっているんですが、地の塩、世の光になりなさいと言っているわけではなく、世の光であると言っているんです。だから時々ここを読んでわたしたちは地の塩、世の光にならなくてはならないではなくて、世の光である。つまり地の塩であり世の光であるということを自覚をして、そこから出発するようにということを書いてあるわけなんです。
すでに世の光であるということに気がついて、世の光として歩んでいくと主がわたしたちを励ましておられるということなんでしょう。だから世の光であるという出発点からいかなくてはならない。光はなんなのかといったら、暗闇を照らすということです。暗いところを照らすために光があるということなんです。
金曜日から土曜日にかけて雪が降って、わたしは鎌倉に住んでいるんですけれども、そこもすごく雪が降って、土曜日の晩はわたしの誕生日だったんですけれど、練成会でこれから夜のセッションをしようと思ったら、突然電気が消えて停電になってしまって、仕方なく蝋燭を持ってきて、でも電気がついたのでやりましたが、停電の時は電気がなくなり真暗になってしまいますから、どうするかといったら光を持ってくることが大事なことになるわけです。
イエズス会と他の修道会を比較するジョークが、ヨーロッパには山のようにあるんです。カルメル会の神父様とフランシスコ会の神父様とイエズス会の神父様が三人集まっているときに、停電になったらどうするかというと、フランシスコ会の神父様は、わたしたちの兄弟である暗闇よ、と言って暗闇を賛美する歌を歌ったといい、カルメル会の神父様は闇の神学ですね。わたしたちは暗闇を通して神様に交わるという暗闇の神秘を語ったという。イエズス会の神父様は部屋を出てブレーカーを直してすぐ電気をつけたという。
暗闇を賛美したり暗闇を味わうのも非常に意味がありますけれども、一番大事なのは光をともすことになるわけで、案外あたりまえだけれども、案外難しかったりします。もちろんブレーカーが落ちたらすぐだけど、停電だったら蝋燭の火を持ってこなければならなかったりします。少なくともみなさんの家でも、カトリック信者の家は蝋燭が何本かあるので、停電の時に便利なんですよね。わたしたちは世の光だってことは、火をともすということをするかどうかということに、なってくるんではないかと思うんです。
具体的にもっとわたしたちの生活でいうならば、それはいろんな信者さんがわたしのところに来て、大きな苦しみを抱えられている方、病を抱えておられる方も多いと思いますが、結局は暗闇の話なんですね。仕事場で嫌な人がいて、とんでもない人がいるとか、家族の中でも御主人がとんでもない人でとか、あるいは自分の子供がとんでもないとか、だいたい暗闇の話でどんなに暗闇が深いかっていう話を、それは苦しいからですけれども、わたしにする方はおられるわけなんですね。闇がいかに深いかということを、ただ暗闇がそれだけだったらなくなるかというとなくならない。それはそのように闇が深いかもしれないけれども、その人に暗闇が深ければ深いほど蝋燭一本つけたらどうですかというわけです。
ある人はそうだと思って蝋燭をつけようとし、ある人は暗闇が多すぎて、周りの人のせいにして、暗闇に巻き込まれたままです。光をともそうとしない限り、暗闇は無くならないんですね。つまり暗闇の愚痴を言ったり、暗闇がいかに深いかということをいくら話しても、それで暗闇がなくなるのなら、暗闇の話をたくさんしてもいいかもしれないですけれども、暗闇がなくならないんです。暗闇をなくそうと思ったら、あかりをつけるだけなんです。難しいかもしれないですけれども、でもイエス様はわたしたちに世の光であると言っていることは、わたしたちは光をともすことができるということです。別にこんなに大きな電灯をつけなくても、蝋燭一本つければパッと明るくなる。
暗闇を暗闇だけとろうと思ってもとれないんです。こんなに暗闇があるから、ちりとりで掃いて掃除機で吸い取ろうと思っても、暗闇はなくならないし、ほうきで掃いて暗闇をなくそうと思っても出ないんです。暗闇を追い出す唯一の方法は光をつけるだけなんです。光をつけたら暗闇はなくなるんですよ。だから暗闇と戦う必要も、格闘する必要もない。暗闇に対する本当の方法は、光をつければいい、ただそれだけなんですね。それをするかどうか。その積極性をどんなに小さくても一本でも明るいから、そこから始まるわけです。その小さな蝋燭を自分がつけようとするからです。
でもわたしたちは世の光であるといわれているからつけられるんです。つけられるから一人一人が世の光だとイエス様はおっしゃっているわけです。だからあとは照らすだけですよ。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。」なんで燭台の上に置くかというと照らされるからです。よく見えるところに置けば置くほど、闇が消えるからなんです。わたしたちが世の光であるということはすでに光があるんです。その光を適切なかたちで照らせばいいんですね。大きい小さいは関係ないんです。小さくても小さな光だから、ちょっとひかったらその分だけ闇が消えるんですね。
闇に捕らわれていたら負のスパイラルです。闇が闇を呼ぶ。闇の中に留まる方が楽な事もあるかもしれない。ニコデモがそうなんですけれども、ニコデモのところでイエス様が、暗闇から光の方に来いと言うんですけど、そうしたら暗闇だったらかえってわからないから楽だというんですね。明るいとはっきり見えて行きたくないという気持ちは、わたしたちにも湧いてくるかもしれない。光で照らす以外ないんです。暗闇の中にいるならば自分で小さな光をともすだけなんですよ。どんなに小さくてもそれがともれば消えてしまうけれどもまたつければいいわけだから。
そうして大いなる暗闇を少しでも払っていけば、わたしたちの生活には光が少しずつ輝いてくる。それでわたしたちの生き方は十分ではないかと思いますね。暗い暗いと嘆くよりも、すすんであかりをともしましょう、という言葉がありますよね。わたしの今日の話はそういうことですで、終わってしまうんですけれども。
重い病気で苦しんでいるとしたら、少しでも健康にいい、リハビリになるような事をちょっとするとか、少しでも体に良い食べ物を食べるとかでもいいと思います。プラスになることをちょっとでも積み重ねていくならばそれは大きなことにつながって、神様から力をいただいて、小さくてもいいからあかりをともすことになり得ると思います。
同僚のアルゼンチンから来た神父様がいて、実家は牧場で高校生になって始めて普通の乗用車を見たと言って、それまではトラックしか見たことがなかったというくらい田舎に住んでいました。その牧場の広さを聞いて地図を見たら、牧場の一辺がこの四ツ谷から新宿ぐらいなんですね。一人の家の農場の一辺がここから新宿ぐらいまであり、それの正方形ぐらいが自分の農場だというんだからすごく広い。わたしたちの考えを超えるぐらい広い牧場を、お父さんが持って牛を飼っておられた。
彼がそういうところでたとえばピクニックに行ったりして何が怖いかといったら、道に迷って日が落ちると、ものすごい真暗で怖い。すごく広いところで迷ってしまったら、何も見えないし、それこそ暗闇の世界になってしまうから、しかも平野ですから、どこまで行っても右に行こうが左に行こうが、野っぱらが延々と広がっているだけで道から外れたらどうしようもなくなります。その時どうするか、あまり歩きまわらない方がいい、歩けば歩くほど分からなくなるから。どうするかといったら、地平線をよく眺めて、どこか一つぐらい小さなあかりがあり、よくよく見ると、一点ぐらいは必ずごく小さなあかりが見えるそうなんです。小さなあかりが見えたらあとはその光に向って歩いて行くだけだというんですね。平野といっても金網があったり、小さな川があったり、ちょっと起伏もありますけれども、ただそれだけを見て、数時間も歩いていったらだいたい人家なんです。人が住んでいるところで、電気をつけたあかりなんです。だからそれを見て、一直線に歩いていけばたどりつくと言っていました。
わたしたちが世の光であるということも、ほんの小さな光かもしれないですね。周りが全部暗闇で、ほとんど真暗闇に見えるかもしれない。どこかにかすかにちょっとでも光があればそれでいいんですよ。その小さな光に向って歩いて行く。小さな光を自分の生き方の中心にして、基本は世の光なんですから、わたしたちの存在そのものは光に支えられているから、暗闇に覆われているように見えるだけなんです。
でもほんの小さな光でも自分がそれを自分の心に入れて、あるいはそれに向って生きていくならば、それがだんだん大きな光になってくる。神様の恵みの中でその光を信じて、わたしたちが歩んでいけるようにしたいと思います。
わたしたちはみんな光の子だとヨハネの福音書に出てきますけれども、わたしたちは光の子であることを忘れないようにして、その光を生きていくように、歩めるようにこのミサでお祈りしたいと思います十

 

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第一朗読 イザヤ書 58章7-10節

 主は言われる。
  私の選ぶ断食とは
 飢えた人にあなたのパンを裂き与え
 さまよう貧しい人を家に招き入れ
 裸の人に会えば衣を着せかけ
 同胞に助けを惜しまないこと。
 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
 あなたの傷は速やかにいやされる。
 あなたの正義があなたを先導し
 主の栄光があなたのしんがりを守る。
 あなたが呼べば主は答え
 あなたが叫べば
 「わたしはここにいる」と言われる。
 軛を負わすこと、指をさすこと
 呪いの言葉をはくことを
 あなたの中から取り去るなら
 飢えている人に心を配り
 苦しめられている人の願いを満たすなら
 あなたの光は、闇の中に輝き出で
 あなたを包む闇は、真昼のようになる。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 2章1-5節

 兄弟たち、わたしはそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした十

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                     2014 年 2 月 11 日(火)いやしのミサ 
                                    カトリック麹町教会 マリア聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記