カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-09-07 共に歩む共同体とは

英神父 ミサ説教                                                       イグナチオ教会於

マタイによる福音書18章15-20節 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」十

 このマタイの福音書の18章というのは、全体的に教会、共同体をどのように過ごせばいいかをまとめて書いてある、そういう興味深い章にあたっています。問題は何かということですけれども「兄弟があなたに罪を犯したなら」そういう場合にどうすればいいのかということです。わたしたちの教会、共同体にしろ、家族や職場にしろ、問題を起こすトラブルメーカーだったり、罪を犯す人というのは存在するわけで、その人とどのように関わればいいのか、人によっては大きな問題だと思います
人が集まるところには必ず問題を起こす人がいることも確かだと思います。ここを簡単に説明するならば、よく話し合いなさい、ということです。その人を囲って、真剣な誠実な対話をしっかりしなさい、と言っています。日本人はこれが苦手なんですが、心を開いて徹底的に、相手と仲間と共に話し合いなさいということです。
そして共同体の中で、そうせざるを得ない現実に遭遇することもあると思われます。でももう一つの解釈でいうと、イエス様は異邦人や徴税人をどのようにみなしたのか、という問いはたてられます。でもイエス様の態度は、はっきりしていますから、徴税人や異邦人を罪人として、その罪を受け入れ赦されました。どうすることもできなかったときは、最終的にその人を赦しなさいと、そういう教えとしてここが書いてあるという説もあります。だから無限に赦しなさいとイエス様は言っているという説もあります。
そのように説が分かれるのは、わたしたちの現実だからです。どうしても合わない、うまくいかない人がいるならば、その人との関わりを絶つか、あるいはその人を無限に赦すか、わたしたちは問われるわけです。解釈が問われるわけではなくて、わたしたち自身が問われるわけです。その人との関係を絶つ方が、楽かもしれないですが、それがイエス様の御心かどうかはまだ分からないのです。でもその人を無限に赦すということは、また問いかけなければならないことです。そしてその後に、どんな願いごとであれ、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」最終的に共同体の中で何をどのように祈る、というのが、わたしたちの問いとして、残るのではないかと。まとめていうならば、どれだけ誠実な対話と、祈りをささげられるかどうか、その共同体、関わりにおいて。そしてその中で神様のみ旨が神の心が示されるということ、それはあり得るのではないかと思います。
一つだけ例を話すならば、昔わたしがフィリピンにいた時に、ラルシュ共同体というところで、一ヶ月ほどアシスタントをしていたことがあります。ラルシュ共同体というのは知的ハンディを持っている人と、健常者とが共に歩む共同体なんです。日本では静岡のカナの家が登録されていますが、世界中で150くらいのコミュニティがありますけれども、その中でフィリピンの一つのコミュニティに、しばらく住んでいたことがあるんですが、その中の知的ハンディを持つ人と、健常者が何人かといたりしました。
ある一人の女の子は、知的ハンディがありました。年齢は高校生ぐらいでしたけど、身長は小学生ぐらい、知能は小学一年生くらいの人で、障がいがあるなしよりも、ものすごいわがままだったんですね。共同体の輪を乱すというか。ニンジンとか大嫌いで、自分が嫌いなものは全く食べないし、みんなの言うことを聞かないし、この人が一人いたら共同体がぐちゃぐちゃになりました。その彼女を助けている一人のフィリピン人がアシスタントをしていて、疲れきってしまい、あまりにめちゃめちゃだから、どうしようかということで、みんなで話し合いの会議をしたんです。そんなにわがままだったら、その子をあずかることができないから、追い出すしかないのではと、あるミーティングで話していたんです。
いろいろ話すと、その女の子には奇妙な特徴がありました。それはいつも小さなバッグを持っていて、隣りがデイケアセンターで、毎日隣りなのに、いつも小さなバッグの中に、着替えを一式持っていくんです。その時にミーティングには心理学者の人がいて、その心理学者はこう言ったんです。「この彼女にはルーツがない。根がないんだ。落ち着ける家がないから、自分の着替えをいつも持って歩いている。つまりどこにも根をおろすところを持っていないから、どこに行くにも着替えを持って、家というのが彼女には存在していないのではないか」と言ったんです。
実際に彼女の家は家庭崩壊し、家族は誰もいなくて来ました。だから体の大きい韓国人のアシスタントのことをタータイ、フィリピンの言葉ではお父さんという意味で呼んでいたんですけれども、自分のお父さんに会ったこともないから、アシスタントをお父さん代わりにしていたんです。その事を心理学者の人が言ったら、彼女をアシスタントをしていたフィリピン人女性の顔色が変わり、やっぱりもうちょっとがんばってみよう、ということになりました。アシスタントとみんなが協力して歩調を合わせて、彼女に対応するように決めました。彼女は食事中に立ったりしていたから、みんなで協力してケアすることをしてみて、一ヶ月がたったんです。
みんなで心を合わせて傷を負っている女性を、受け入れてみんなで対応するならば、一ヶ月後にはその子は変わってしまいまいました。嫌いなものを一生懸命食べるようになったし、みんなと一緒に食べるようになったし、みんなに合わせようという気持ちができてきて、一ヶ月後の会議では、彼女も受け入れ、放り出すことをやめて、共に一緒に歩みましょうということになったんです。たった一ヶ月の間に、一人の女の子の生き方が、全く変わった。その女の子がそこまで変わるかというぐらい、全く奇跡のように人間が変わっていく姿を、垣間見ることができました。
わたしたちはどれほど、真剣な対話と真剣な祈りを共同体の中で積み重ねられるかどうかだと思います。どこの共同体にも問題のある人は混じっているのが普通だからです。
そこでイエス様は何を望んでいるのか。わたしたちに何ができるのかということを問いかける、話し合う、祈り合う中で神様がその答えを示してくださることはあるのではないかと思います。その創立者であるジャンバニエの言葉で、大好きな言葉があるんですが、「理想的な共同体とは、何の問題もない共同体が、理想的な共同体ではない。何の問題もないようにみえているだけである。」つまり問題が隠されているだけで、本当の理想の共同体ではない。でもわたしたちはつい問題のない共同体を求めてしまうんですけれども、彼が言うんですね「理想的な共同体はなにか。共同体の抱えている問題と、共に歩ける共同体が、理想的な共同体。」抱えている問題を、話し合いながら、祈り合いながら、赦しと愛の心を持って歩めるかどうか。それが今日の福音書で問われているのは間違いないと思います。
十二人の弟子たちの中にユダがいたわけです。イエス様の側近ですら、そういう存在が混じっていたのは、わたしたちの大いなる現実だと思います。
わたしたちが今いるその場の中で、今の人間関係の中で、真の対話と、心からの祈りをささげることにこそ、わたしたちがどうすべきか、何をすることがどのような態度なのか、神様が示してくださると思います。それをわたしたちが真摯に聞いて、そして共に歩んでいけるよに、このミサでお祈りをささげたいと思います十

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第一朗読 エゼキエル書 33章7-9節

主の言葉がわたしに臨んだ。人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。


第二朗読 ローマの信徒への手紙 13章8-10節

皆さん、互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。十

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                      2014 年 9月 7 日(日)
                        年間 第 23 主日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                         イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記