カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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20150614 実りに今は気付かなくても

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 4章26-34節 〈そのとき、イエスは人々に言われた。〉「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエス、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された十

 今日の福音書は、イエス様が神の国を植物の成長にたとえているわけです。植物が自然の力によって種から芽を出して、成長して実を結ぶ、神の国はそのようなものだと、たとえているんだと思います。特に有名なのは、からし種のようなものであるということです。ここの信者さんに聞いたんですけれども、からし種の木があるんですね。主聖堂の外のマリア像の奥のところですが、ちょうど今、黄色いラッパのような小さな花が咲いていて、幹の背の高さがわたしぐらいです。
からし種というのは小さな種でごまより小さい、一度見たことがありますけれども、本当に小さいものが蒔かれて、成長したら2メートル近い高さの木になるというそうです。
神の国はそのようにごく小さなところから、それも勝手に神の力で広がっていく、そのようなイメージで語っているんだと思います。それはからし種だけではなしに、食物を育てている人であれば、種から蒔いてそれがいつのまにか成長していく、それを経験している人は多いのではないかと思います。神の国というのはその植物が育つように、神様の恵みによって広がっていく、そういうものであるということです。
このたとえを読んで個人的に思うのは二つの事で、一つは、神の国はあんまり広がっているようにみえて、広がっていないというか、先進国の日本にいるとかえって悪の力のほうがどんどん成長しているというふうに、神の国はあまり広がっていないような気もします。あるいは自分のやっていることが空まわりする思いで、何の実りを結んでいないかのような、そのような実りのなさを感じることは多いのではないかと思います。だからこそイエス様はこういうたとえ話を語られたのではないか、つまりうまくいっている人にこの話をしたのではなくて、うまくいかなくて行き詰まっているような人を励ますために、このようなたとえ話をされたのではないかと思います。
わたしたちの心の持ち方や、ものの見方を変えることによって、この神の国が広がっていく、わたしたちはいつもそのように協力できる、そのような励ましのような感じもします。
前に雑誌で読んだお話ですけれども、それまで専業主婦だった人が、花屋さんを始めた。子育ても終わり、子供のころからやりたかった花屋さんを、家の資金を使って始めたというんです。でも素人が始めたからなかなか売れない。売り上げが落ちると仕入れもだんだん減るわけですね。花屋さんで売る花もだんだん減ってきてしまって、行き詰って辞めようかと思っていた時に、たまたま近くに住んでいた経営コンサルタントみたいな人が買いに来て、あまりに花の数が少ないから驚いて、お店屋さんなのにお花があんまりおいていない。それは売り上げが少ないから仕入れもだんだんできなくなってきたわけです。そうしたら花屋さんにそのコンサルタントの人が何気なく「どこのお店も仕入れ先は一緒で同じものだから、この店に来たくなるような、この店だから来たくなるようなお店を、もっと言えば一本一本の花がこの店に来たくなるような店づくりをしたらいいのでは」とアドバイスを受けてました。確かにその人は売り上げが落ちて顔色が悪くなり、お客さんも遠のいた。まずはお客さんとかお花が、この店に来たくなるような雰囲気でやったらどうかという気持ちに変えたんです。なるべくニコニコして、来るお客さんとかお花を大事にするようにした。そうしたらどうなったかというと、店の雰囲気がガラっと変わって、今まであまり来ていなかったお客さんが、どんどん来るようになって、お客さんだけではなく枯れかかった、鉢植えの花を持ってくるようになって、お花のお医者さんみたいになって、いろんなお花を買いに、あるいは弱ったお花を相談しに持ってくるようになって、売り上げが40倍にも増えたというお話でした。
神の国が広がっていない、自分のやっていることがうまくいっていないというのは、どこか力が入りすぎていて、神様の恵みの視点をわたしたちは忘れがちかもしれない。神様にまず心を開いて、わたしたちが神の恵みの中で生きていることを思い出すならば、神の国の広がる力が自分自身に、あるいは周りに広がってくるのではないか、神の国の第一のポイントは、人間の力ではないということです。神の力によって神の国が広がってくる。だから自分でがんばりすぎたり、自分の問題に捕らわれて、難しい顔をして悩んでいるだけでは広がらないです。むしろ神様の恵みに心を開いて、委ねていく時に、そして感謝の気持ちで歩んでいく時に、神の国というのは広がってくる、そういう可能性があるのではないかと思います。
ただやっていること全てがすぐ結果が出ないかというと、それはもちろん言えないと思います。神様の働き方は現代の流行みたいにすぐ消えていくものではなくて、神の国はじわじわ広がってくるようなものなので、ある時は目に見えていないかもしれないけれど、少しずつ着実に神様の国が広がってくる、そういうものであるかもしれない。だから今やっていることがすぐに結果が出なくても、わたしたちはそれをコツコツ続けていく、そういうことが必要かもしれないと思います。
わたしのもう少し上の世代ですけれども、ベトナム戦争に反対することが日本でも大きく盛り上がって、アメリカがベトナムを責めていることに対して平和運動が日本でも当時盛んだったそうです。デモをしていても結局は政府が決めたことというのは変わらないわけですけれども、ある人がベトナム反戦のデモに参加していて、それが実りを結ぶのかどうなのか、分からないけれどその頃はやっていた。そうしたら三十年後にあるアメリカ人の平和運動をやっている人と出会う機会があって話したら、なんと彼はアメリカ軍の兵士として、日本の基地にいた、ベトナム戦争の反対のデモを見ていたというんです。彼はその時は米軍の兵士として働いていたんだけど、日本に来た時にデモをしているのを見て、やっぱり自分たちのやっていることは問題があるんではないかと思って、結局国に帰って兵隊を退役して、その後は平和運動に関わることにしたというんです。
そのベトナム反戦のデモに参加していた人は、実りを気づいたのは三十年後、アメリカ人の平和運動している人に出会って始めて分かったことです。わたしたちが神様のためにと思ってやっていることも、すぐは実りが出ない事のほうが多いのではないかと思います。
その実りが全くみえないまま過ぎ去っていることがあるかもしれない。それは神の目から見たら、確実にどこかで実りを結んでいることもたくさんあると思います。神様が神の国の広がりを約束している以上、わたしたちの祈りや行い、あるいは愛の業が実りなしで何にもないということは、やはりあり得ないと思います。その実りに本人が気づけるかどうかはまた別だと思います。
わたしたちは神様の大いなる働きと神様自身が神の国を広めたいと思っている、その心に信頼して、わたしたち一人一人ができる、ごくごく小さなことですが、それを果たすことによって、わたしたちも神様に協力していきたいと思います。
わたしたちもどこかで、いろいろな助けを得ているわけですから、神の恵みに感謝しつつ、わたしたちが神様に協力して、少しでも神の国が広がっていく協力を、小さなかたちでいいから、この一週間で果たしていくことができるように、お祈りしたいと思います十

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第一朗読 エゼキエル書 17章22-24節

 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第二 5章6-10節

 〈皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。〉それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです十

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                      2015年 6 月 14 日(日)
                      年間 第 11 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記