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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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20150322自分を捨てて出会える御方

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音 12章20-33節 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。 今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである十

 今日の福音書はヨハネの12章の有名なところが朗読されました。このエルサレムの祭りの時に、イエス様も人々も集まって来ていた、その中でのお話です。何人かのギリシャ人がイエス様に会いたかったんですね。そこでまずはフィリポに頼んだんです。フィリポがアンデレに話して、アンデレとフィリポがイエス様のところにお目にかかりたい人がいると言って頼みに行ったんですね。でも「人の子が栄光を受ける時が来た」と有名な「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」というお話を始めるんです。奇妙なのは、ギリシャ人は、イエス様に会えたのか会えなかった、話が全然つながっていないというか、ヨハネの福音書はこういうところが多くて「愚か者の対話」と呼ばれるんです。人間の言っていることと、イエス様の言っていることが、全くかみ合っていないですね。ヨハネの福音書でも、お目にかかりたいと言っているんですけれど、イエス様は何の関係もないお話をされます。このあとも会えたのか会えなかったのか、何にも書いていないから、どうなったのかわからないままこの話は終わっていて、わたしとしては、このお話は何なのか、つながりがないように思えるわけです。
なんでこんなにおかしくなっているのか。編集者の人が組み合わせを間違えたのかもしれない。一番大事なのは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」でもその一粒の麦が死ねば、多くの実を結ぶという。これはイエス様のご自分の受難を語っていることはまず間違いない。十字架上での死を語っている。たぶんこれはもう一つあるわけで、自分自身の死を語っているだけではなくて、わたしたちクリスチャン一人一人も自分に死ななければならないということを語っている。だからその後すぐに「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」この一粒の麦が死ぬということは、自分の命を憎む、自分の命を捨てる、自分自身を捨てる、ということを合わせているのは、まず間違いないと思います。イエス様が十字架上で亡くなられたということと、そしてわたしたち一人一人が、自分の生活の中で自分の命を捨てる。あるいは自分を捨てる。そのような事ができるかどうかということが、大きく問われている。特にこの四旬節はそういう問いを、自分自身にする必要性はあるのではないかと思います。
前に黙想会をやった時に、一人の黙想者が話してくれたことは忘れられない話で、お茶の時間にみんながいるところで喋られたので、ここでもちょっと喋ってもいいかなと思いますが。十年間ご主人の介護をされていた。寝たきりになって難病になって、とにかく大変で自分のやりたいことを全て諦めなければならなかった。最初のうちはコミュニケーションをとれていたけれども、途中から喋れなくなって、24時間ご主人のために世話しなければならなかった。しかもコミュニケーションがとれない。だから介護がいわば地獄のような苦しみ。出口が全くない、何年続くか分からない介護を延々と続け、苦しみの中にあったというんですね。それで5年ぐらいが過ぎた時にふと、このみ言葉を思いだして「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」外の苦しみは何も変わらない、だからイエス様の言葉を信じて自分を捨てようと思った。自分があれがしたいのにできないとか、できていないことばかりですから、自分の命、自分自身を、み言葉に従って捨てる決意をされた。自分のモヤモヤを捨てて、とにかく自分の全てを捨てて、ご主人の介護をすることに専念すると決めたというんです。そして、決めた瞬間にイエス様が自分のそばにいるのが分かった。さらに状況が厳しくなったけれども、残りの5年間はイエス様といつも一緒にいる。神様の現存の中に過ごすことができる。自分の生涯で一番神様と深く交わることができた、特別の恵みの5年間を過ごすことができたということを、その人は分ち合ってくれました。そのあと御主人が亡くなられたので、自由な時間ができたから、黙想会に来られたりしていたのです。
あまりにみ言葉どおりで、自分の命を捨てた途端に命をいただけた。しかもその命というのは自分の命ではなくてイエス様との深い親しみという命をいただいた。
最初にギリシャ人の話をしましたけど、イエス様にお目にかかりたいという話をして、イエス様は全く関係ないかのように、一粒の麦の話をされているけれども、でも実はこれは関係があるのではないか。
そんなにわたしたちも、すぐにはできないですけれども、今の自分に捕われたりとか、何を食べようかとか、それを置いてでも、わたしたちは自分を捨てて、イエス様に本当に従おうとした時に、イエス様は現れてくださる。はっきりと自分自身のそばにおられるイエス様がです。
わたしたちがそのイエス様に従っていけるように、そして一粒の麦を死なせることが大事なことだと思います。
種が発芽するには、温かさと湿気と光がないと種は発芽しない、つまり死なない。だから本当に死ぬためには、温かさと熱と光がいる。その三つがそろったら、種が割れてそこから芽が出る。温かさも光も湿気も神の恵みですよね。しかもタイミングもあると思います。つまり温かさも潤いも光もないところではできないかもしれないです。神様に信頼して、神様の温かさに委ねてたぶん死ぬことができる。それが実を結んでくるんだと思います。タイミングとかも必要かもしれないですけれども。
でもわたしたちがイエス様に従って、心から従っていくならば、はっきりそれも示されると思います。神様はいつも温かい方だし、いつも光の存在だし、いつも潤いをもたらしてくださる。神様に信頼して、わたしたちは自分を捨てて、イエス様に従ってイエス様と交わることができると思います。
わたしたちがそのような本当の神様の恵みに与かれるように、そしてわたしたちが本当の信仰のうちに神の交わりに歩めるように、今日のような言葉を小さなかたちでも、この四旬節で、実践できるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 エレミヤ書 31章31-34節

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第ニ朗読 ヘブライ人への手紙 5章7-9節

 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました十

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                      2015年 3 月 22 日(日)
                       四旬節 第 5 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記