カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-10-18 man for others

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 10章35-45節〈そのとき、〉ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは(十二人)を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」十

 今日のミサは世界宣教という、人々に福音を述べ伝え祈る日にするように、フランシスコ教皇からも、岡田大司教からもそのような意向がきています。キリスト教の特徴の一つが、どこまでいっても福音を述べ伝えるように。イエス様の時代からわたしたちに命じられているというのです。
日本の場合もフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えたわけだし、明治以後は主にヨーロッパから宣教師の方が日本に来られてキリスト教を日本に述べ伝えてくださった。その恩恵を受けている方々もこの中に多くおられると思います。
告げ知らせる人がいるからこそ、わたしたちはキリスト教を信じることができるわけで、そしてわたしたち一人一人は、その恵みをただ単に受ける側にいるだけではなくて、わたしたち一人一人が述べ伝える側にいるということです。それも世界中にキリストの福音を述べ伝える使命が、わたしたち一人一人に与えられているということ、それは時々わたしたちが思い起こさなければならない事だと思います。
わたしたちはついつい受けることに満足して、それを人々に分ち合おうとする気持ちが、欠けていることもあるのではないかと思います。わたしたちがいかに開かれた心で生きていくのかということ、それをしっかりと心がけなければならないと思います。
日本にたくさんの宣教師の方がおられましたけれど、この教会の3階にアルぺホールという名前がついている部屋があるんですけれども、この教会で唯一、人の名前がついているところだと思います。
アルぺ神父様という今から40年ぐらい前の、イエズス会の総会長だった方の名前がここについているんです。アルぺ神父様という方は、日本の管区で最初の管区長になられた方で、広島におられたときは原爆の被害にもあわれ、長塚の修練院におられ、被爆した方々をお世話されたんです。もともと医学生でした。その後、世界の全体を取り仕切る総会長という職にあたられた。特に第二バチカン公会議のあとのイエズス会を、再創立するような大きな働きをなさった方で、それを記念するかたちでアルぺホールをつくったんです。アルぺ神父様がよくおっしゃっていた事が、man for others で、他の人々のための人になれ、ということです。それから言葉が変わってman and womanとかですが、基本的には、man for others で人々のための存在であるということです。
わたしたちの宣教というとオーバーになるかもしれないですが、わたしたちの存在は絶えず人々のための存在であるということ。それをアルぺ神父様が繰り返しおっしゃっていましたが、わたしたちもその事を心がけるということ、それが大事なことだと思います。
今日はゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエス様にお願いするんです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエス様が王になった暁には、右大臣と左大臣にさせてほしいとお願いするわけです。
人間の奥深いところにある人のために生きるというよりは、どこか自分のために生きていきたいという気持ちの表れであろうと思います。この朗読の前には省かれているんですけれども、三回目の受難予告でご自分自身は、十字架に架かって死んでいくということを、イエス様は三回目の予告をされるのですが、その後に話が出てくるんです。イエス様が十字架に向かって、ご自分の命を人々のためにささげようとする、決心を新たにしている。裏腹にわたしたちは全くその気持ちが分からず、結局自分たちを特別優遇してくれ、というんです。自分勝手な願いをイエス様に打ち明けている。大きな対比として描かれているところです。
わたしたちの心の中の根深いところにも、そういうものがあると思います。結局わたしたちは自分のために生きているのか、あるいは周りの人々のために生きようとするのか、man for others で生きようとするならば、仕えるものになり、全ての人の僕のような人になるよう、わたしたちは選んでいく、それを心がけていくこと。それが大事なことではないかと思います。
man for others という人々のために生きていこうとする時に、洗礼そのものに導かれているかどうかはともかく、わたしたちは神の愛やイエス様の福音を人々に分ち合っていく、そのように呼ばれていることは間違いないと思います。
それは心がけというか、わたしたちの生きる姿勢がそこで問われているものでもあると思います。
ひとつ思いだしたことがあって、東日本大震災の後に、わたしは釜石に行って支援活動をやっていたんですけれども、たくさんのベースキャンプができていて、ほとんど全てのボランティアが、メッシュの黄緑色のジャケットを着ている。カリタス・ジャパンと書いてある。それを着て必ずボランティアをやっていたんです。どこのベースでもそうで、どこのボランティアであるということをはっきり示すために、メッシュの薄いベストみたいなものです。それを必ず来てどこのベースキャンプにもいたんです。
後から聞いた話ですが、釜石には津波でやられて、家は残ったけれども仕事や家族を失い、生きる希望も失っている青年が、教会のそばに住んでいたそうです。でも仕事もない絶望感で、いつ死のうかと思い暮らしていたんですが、釜石教会には次から次へとボランティアが来て、その人のカリタス・ジャパンという黄色いベストは変わらないわけで、彼は毎日毎日、窓からボランティアに来る人のベストをいつも見ていたんです。毎日毎日カリタス・ジャパンと書かれたベストを眺めているうちに、これだけ多くの人が人助けに来られていると気付いて、そして自分も頑張って生きていこうと、死ぬことをやめて、彼は新しい仕事を見つけようという気持ちになった。そこから歩み出した青年が、教会のすぐそばに一人おられたんです。
そこに来られたボランティアの人はもちろん、人助けに来て、その青年を助けようとしたのは別に誰もいなかったと思いますが、でもそこに来たボランティアの人々は少しでも人々を助けようとする気持ちから、最初は泥出しからやったり、傾聴ボランティアとか、時期によってボランティアの内容もどんどん変わっていったんですけれども、その人々の善意というか、何か一人の青年の命が救われたことは事実です。
それも一つの大きな宣教だと思います。一人の人が少しでも救われるように、自分の命を大切にするように生きるならば、それは大いなる宣教の一つだと思います。それがなされたのが、ボランティアに来ていたほとんど全員が、人々のために生きていこうと思っている。そういう人々がたくさんおられたから、彼は救われたであろうと思います。
わたしたち一人一人にできることはごくごく小さなことかもしれないけれども、わたしたちクリスチャンがそのような気持ちで絶えず生きていくならば、思いがけないところでイエス様の救いの力が働いているということがあるのは確かだと思います。だからこそわたしたち皆が、イエス様の愛を述べ伝えていこうとする、それを生きていこうとする道がいつも必要だと思います。別に誰かのスーパースターのように立派に働くのも必要かもしれないけれども、わたしたち一人一人が小さなことから多くの人の助けになっていると思うのも事実だと思います。
この世界宣教の日にあたり遣わされている、わたしたち一人一人が人を助ける存在であるという、それを思いおこして、少しでも小さな仕える気持ちで、人々の僕になる気持ちで歩んでいけるように、特にこの一週間、そのことを心がけながら、歩めるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読イザヤ書 53章10-11節

  病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
 彼は自らを償いの献げ物とした。
 彼は、子孫が末永く続くのを見る。
 主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った。

第二朗読 ヘブライ人への手紙 4章14-16節

 〈皆さん、〉わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。十

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                            2015 年 10 月 18 日(日)
                         年間 第 29 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                       イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記