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キ リ ス ト 教 の お は な し ○ カトリック 英神父の説教集 ○

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2015-04-05 主はみなさんとともに

英神父 ミサ説教              復活の主日 洗礼式 聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書20章1-9節 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである十

 この復活の主日というイエス様の復活を記念するその日に、みなさんが洗礼を受けるというのはふさわしいと思います。洗礼を受けるというのは、まさに古い人に死んで、新しい人になる。イエス様の十字架と共に古い人を葬って、イエス様の復活と共に新しい人になる。その洗礼はそういう意味があるわけですから、復活の日に洗礼を受けるというのは、ふさわしいと思います。
洗礼を受けてみなさんは、新しい人としてこれから歩んでいくということです。洗礼を受けてもあんまり変わらないところが多いよゥに思いますが。洗礼を受けて急に若返ったり、美人になったり、頭が良くなったりしないし、性格も変わらないし、急にお金持ちになるわけでもないです。洗礼を受けている人の方が、社会で成功率が高いわけでもないし、癌にかかる率とか、健康とか全て同じなんです。では全く変わりはないかというと、そうではないです。
洗礼を受けて何が変わるのかというと、自分自身がどう変わるのかは、楽しみにされたらいいのではないかと思います。どう変わるのかは一人一人いただくお恵みは違うのではないかと思います。
わたしの時は20歳の若い頃に、あるきっかけがあって洗礼を受けました。その時は大学生でしたから、急に成績が良くなったり、ハンサムになったということもないですけれども、でも自分が洗礼を受けることによって、全く変わりました。価値観というか考え方というか物の見方、そして自分自身の在り方。今から振り返ると、全く変わらないようで、全く変わりました。その時ははっきりとは分からなかったですけれども、今思うに、洗礼を受けて何が変わったかといえば、はっきりしていて、復活したイエス様がいつも共にいてくださるようになったんです。だから全く変わりました。苦しみがなくなるということはないです。あるいはそれで急に人間関係がうまくいくということもないし、急にお金が儲かるということもないですけれど、みなさんの生活に、復活したイエス様が、ずっと共にいてくださるお恵みが、与えられるということです。これ以上のお恵みはないかもしれないと思うぐらいのお恵みが与えられます。でも復活したイエス様はもちろん見えないですし、すぐにはそうと気がつかないかもしれないです。復活したイエス様がいつも共にいて、支えて励まして、守ってくださるようになったことは、間違いないです。
どんなに苦しくても、主が共にいて助けてくださる。洗礼を受ける前に自分がどんなに苦しみを耐えてきたのか。神様なしでそれまでは、たった一人でがんばっていたんだから、自分だけでがんばる必要はもう全くないんです。神様が共にいてくださるんですから、神様と共に生きればいい。
これから苦しいことがあるかもしれないし、すごく嬉しいことがあるかもしれない。全て神様と共に悲しみ、神様と共に喜ぶ。そして失望することもがっかりすることも必要がない。復活の主がわたしたちを導いてくださっているからです。
今日の福音書は主の復活が、お墓が空っぽだったというところから始まっているんです。お墓に行ったら、遺体がなくなっていたという話ですが、お墓というのは象徴で、死とか苦しみとか罪とか汚れの象徴ですけれども、そこが空っぽになってしまった。洗礼を受けたらみなさんのお墓もすでに空っぽです。つまり死とか苦しみとか、罪とか汚れや憎しみとかに捕らわれる必要はないんです。すでに空っぽですから。このあと洗礼の水が注がれたら空っぽになりますから、否定的なものや、この世のわずらいとか、すぐに捕らわれからは解放されないですけれども、でも根本的にみなさんの罪の根っこ、苦しみの根っこからは解放される。空っぽになるということです。空っぽになったから、復活した主と共に歩めるんです。
イスラエル巡礼で時々行くんですけれども、イエス様のお墓というのが今もあるんです。聖墳墓教会の中にあって、今もこのお墓に入れるんです。すごく並ばなければならないですけれども。並んで入って、亜麻布はもうないんです。でもお墓があって、入った時にわたしが思ったことは何かというと、ああ、イエス様のお墓はやっぱり空っぽで、何にもない。つまりそこにイエス様はもういないんです。どこにいるのかといったら、みなさんと共におられるわけです。わたしたちはイエス様のお墓参りする必要はないんです。一緒にいてくださるから。
お墓を空っぽにして、復活した主が、みなさんと共におられる。だからみなさんも自分の罪の根っことか、捕われとか古い自分とか罪とか、昔の嫌な過去とか全て空っぽにして、復活した主と共に新しい人としてこれから歩む。これからが出発だと思います。今日からがクリスチャンとしての、第一歩ですから、生涯みなさんが大切に生き抜いていくならば、復活した主の力をはっきりと、じわじわと、恵みを感じる、恵みを与えられていることを確信することができると思います。
今日のこの日を出発として、この復活の主と共に生きる、そのような信仰生活を送ってくださるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 使徒言行録 10章34a・37-43節

 その日、ペトロは口を開きこう言った。「あなたがたはこのことをご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

第二朗読 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1-4節

 皆さん、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう十

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                       2015 年 4 月 5 日(日)
                       復活の主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記