カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-04-28 君は幸せだね

英神父 ミサ説教                        聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書 10章11-18節〈そのとき、イエスは言われた。〉「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」十

  今日は復活節の第4主日のミサなので、良い羊飼いのお話を必ず福音朗読で聞くようになっています。イエス様は良い羊飼いだと、安心させているような、わたしたち一人一人はイエス様の羊であって、良い羊飼いであるイエス様に従っていくことができます。
イエス様が生きていたころは、周りにたくさん羊がいて、良い羊飼いたちもいっぱいいたと思われますけれども、この羊と羊飼いというのは密接につながっている。つまり羊というのは愚かで目もあまり良くない。だからこの羊飼いがいないと、途端に迷ってしまったら元の群れに戻れないわけです。それで羊飼いがうまく群れをまとめて、羊飼いにすれば一匹一匹の羊は大事なものですから、名前をつけて大事にしていたのは間違いない事と思います。
でもわたしたち一人一人は良い羊飼いであるイエス様に導かれている羊であります。それはわたしたちにとって大きなお恵みだと思います。わたしたち一人一人には良い羊飼いであるイエス様がいつも導き、守っておられる。それをわたしたちは忘れないようにしたいと思います。
イエス様が当時の人々を見た時に、飼い主のいない羊のようにというのをみて、憐れに思って多くの人々が、当時も今もそうかもしれないですけれども、どこにどう行ったらいいのかわからない、飼い主のいない羊のように、さ迷っている人々は現代でも多くいるかもしれない。少なくともここに集まっているみなさん方は、迷う必要性はないです。イエス様の導きに従っていけば、わたしたちは心配することは何もない。しかしながら、羊飼いがこっちだよ、と羊を呼ぶように声をかけているわけですけれども、わたしたちは場合によっては、羊飼いであるイエス様の声が聞こえなかったり、あるいは導きが分からないかもしれない。だから耳を澄ませるというか、祈りの中で、羊飼いであるイエス様が自分をどう導いておられるのか、どちらの方に来るように呼びかけているのか。それをわたしたちは良く聞き分けるということ、それをわたしたちにとって、必要なことではないかと思います。そして何よりも大事なのは、わたしたち一人一人は神様から呼ばれて、神様の望む生き方を、果たしていくように呼びかけられているということです。
この良い羊飼いの主日は、50年くらい前からだと思いますけれども、世界召命祈願日ということになっていて、わたしたち一人一人は神様から呼ばれていて、呼びかけられている事を、果たしていかなければならない。召し出されているということです。
何をするように、どのように生きるように呼ばれているのか、わたしたちはこの声を絶えず聞かなければならないと思います。それは一人一人に呼びかけている神の声をどう聞けるかということです。
召命というのは狭い意味では、司祭や修道者に召されることです。聖書と典礼に一人の神父様が記事を書いておられますが、わたしたち一人一人は呼ばれているという事、それをしっかり思い出したいと思います。でもどこからどのように呼ばれるのか、それは分からない事も多いと思います。
思い出すのは、神学校の頃に一緒に勉強していた、ベトナム出身の神父様で、年齢はほぼわたしと一緒です。わたしは普通の日本人ですから、小中高大学と勉強しながら、過ごしたわけですけれども、同世代でも、国が変わると全く違う。ベトナム人の彼は大変な人生を送ってきて、いわゆる共産党の国でしたから、若い時にボートピープルとして逃げてきたわけです。お父さんとお母さんが、このままでは彼らの将来がないということで、子供だけをみんな逃がしたんです。そのボートに乗って秘密に脱出するわけです。それで海を漂っている時に、外国船に拾われたから助かったわけです。拾われなかったら、餓死をするか、隣りのタイの海賊に襲われたらもう終わり。お金を全部取られて殺されてしまう。一か八かそういうところに出る。たまたま彼は日本人の船長さんに拾われて、拾われたからそれで大丈夫かというと、最初はフィリピンで苦労して、結局彼は日本に難民として来るわけです。日本に来て言葉の勉強をするんですが、働きながらでないとだめなので、わたしが大学生の頃から、彼は定時制の高校へ通いながら働いていたわけです。
でもその働いている時に、学校へ行かなくてはならない時間に、会社の社長さんから、どうしてもこれを届けてくれと言われ、その道で交通事故にあって車も大破して、彼自身も大けがをして、入院せざるを得なくなりました。労災なのに、車が壊れたから弁償しろと会社から言われて、自分の入院費もどうしたらいいのか分からないのに、車の弁償までしなければならない。自分は働けないから、ベッドの上でただ丸くなっているわけです。その時に彼は思うんです。自分の人生は苦労ばっかりで、何にもいいこともない。どの段階をとっても、信じられない苦労を重ねてきて、結局はお金もない、何にもなくて、借金をどう払っていいかわからない状態で、ベッドで寝ていた。絶望的な気持ちで、サッカーのテレビを見ていた。そこは相部屋でたまたま隣の日本人のおじさんは、お見舞いも誰も来ない、奥さんが来るだけで、その時は喋れるぐらいで、彼に話しかけてきたんです。
そのおじさんが彼に何を話しかけたかというと「君は幸せだね、お見舞いの人がいっぱいくるから」と言われた。その後おじさんは亡くなってしまうんですけれど、ベトナム人のその青年は「君は幸せだね」と言われた言葉が、稲妻のように胸に刺さった。つまり自分は幸せだと思ったことは、一度もないんです。子供のころからさんざん苦労してきて、何にもいいことがない。こんなに不幸に生まれたのは自分だけなんだと思っていたら、急に隣りのおじさんから「幸せだね」と言われて、それが彼にはショックでした。苦労もあるけれど、考えてみたら、隣のおじさんには誰もお見舞いに来ない。時々奥さんが来るだけでした。彼の周りではベトナム人が働いているので、友達が絶えずお見舞いに来てくれて、足のギプスの包帯が真っ黒になるくらい書き込みをしてくれた。自分には励ましてくれる友達がいっぱいいて、教会の神父様も親切な人で、絶えず彼のところにお見舞いに来てくれる。考えたら苦労もいっぱいあるけれども、幸せなところがあると、彼は気がついたんですね。そして自分が幸せをかみしめた時に、自分の心の中にある、一番強い望みに気がついた。彼はカトリックの家庭に育ったんですけれども、実は神父になりたかったと初めて思い出した。それで自分の人生を振り返ったら、やっぱりそれが一番やりたいことだ、大事な事だと思い、それで所属の神父様にうち明けたというんです。その神父様も偉かったと思います。会社が理不尽なことを言っていますから、交渉して借金を減額して、神父様がいくらか援助してくれて、それで彼は退院して、しばらくしてから神学校に入学をしました。彼にも良い羊飼いであるイエス様が、見放したことは一度もなかったんです。そして隣りのおじさんの「幸せだね」という言葉が神様の言葉だった。それが本当の呼びかけ、神の呼びかけに気がついた。それで彼は今は神父として頑張って働いている。
わたしたち一人一人にイエス様は、良い羊飼いとして導いておられるのは間違いないと思います。わたしたちの方が忘れてしまうだけです。あるいはわたしたちの方が呼びかけがあることを忘れたり聞かなかったり、日常の何か苦しい事に捕らわれて、イエス様のあたたかな信頼に満ちた呼びかけを忘れてしまう。でも誰かを通してイエス様は、はっきりと示されることがある。それが誰かを通して、何かを通してかは分からないですけれども、わたしたちが本当に神様に心を開くならば、羊飼いであるイエス様は、いつもしっかりとわたしたちを導いてくださるから、間違いないと思います。
今日の召命の祈願の日にあたって、フランシスコ教皇がメッセージを出していますけれども、神の呼びかけに答える召命というのは何なのか、パパ様がこう言っているんです。それは不思議な言い方ですけれども「脱出することだ」と言っている。自分から出ることだと言っている。神の呼びかけですから、自分から出なければならないです。別に出るということは物理的な意味だけではないと思います。
そのベトナムの青年も自分から出て初めて自分の本当の望みを思い出した。幸せの言葉によってやっと出れたんです。だから神様のみ旨がはっきり分かった。わたしたちも自分の小さな捕らわれから、小さな世界からやっぱり出る気持ちが大事です。勇気を持ってあるいは寛大な心を持って、そしてわたしたち一人一人を導いておられるイエス様に力強く喜びのうちに従うことができる。それが単なる羊であるわたしたちの最大のお恵みです。羊飼いが導いてくださっているということです。
この良い羊飼いの主日にあたって、わたしたち一人一人に呼びかけている、イエス様の声を聞き、そしてそれに寛大にいつも答えていけるようにこのミサでお祈りしたいと思います十

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 第一朗読 使徒言行録 4章8-12節

 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ,『 あなたがた家を建てる者に捨てられたが、 隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 

第二朗読 ヨハネの手紙  第一 3章1-2節

〈愛する皆さん、〉御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです十

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                    2015 年 4 月 28 日(日)
                      復活節 第 4 主日 B年
                     カトリック麹町教会 主聖堂於
                      イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記