カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-05-21 福音の喜び

英神父 ミサ説教                           聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書 14章15-21節〈そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〉「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」十

 イグナチオ教会ではこの復活節に入ってから、「ミッション2030」という、この教会の共通の目標を決めて歩むことになりました。そして毎月祈りのカードというのを作って、共にこの主日のミサの四番目の共同祈願として唱えることになったわけです。ただミサの中で唱えるだけだったら、なかなか深まらないので、こういうカードを使ってみなさんの生活の中にも分ち合う事ができるというふうにしています。
この「ミッション2030」の文面は短いといったらそうですが、長いといえば長い。その一つ一つをわたしたちが身につけていくというか、それはなかなか時間がかかるだろうと思います。そのために毎月言葉の中の一つくらいを取り出して、一ヶ月間それをゆっくり味わったり、振り返ったりできるように、このカードを作成しているわけです。
今月五月は何かというと「福音の喜び」ですね。「福音の喜び」をわたしたちは生きていくようにです。この「福音の喜びを生きる」ということですけれども、わたしたちの生活で何が本当の喜びなのか。あるいはわたしたちは日頃喜んで生活をしているのかどうなのかということです。それを問いかけながら、振り返りながらの生活を、私もしていますが、なかなかこれも簡単ではない。これ一つすら案外難しいという気もします。わたしたちは本当に福音の喜びを心から生きるならば、それだけでこの「ミッション2030」は実現されているような気がします。何か新たな活動をしたり、教会を変えていく事をもちろんするんですが、わたしたち一人一人が「ミッション2030」の心を生きていけるようになるように。でもその一番の基本は福音の喜びをわたしたち一人一人が実感して、その福音の喜びを生きていくこと。あるいはそれだけでかまわない。それに尽きているような気もします。
当然この「福音の喜び」という言葉は、パパ様が言い出した、フランシスコ教皇が出した「使徒的勧告」のタイトルです。「福音の喜び」なかなか日頃の生活で実感するのは難しいかと思います。
「福音の喜び」という本の冒頭にパパ様がこう書いてあるんです。「楽な方を好む貪欲な心を持ったり、薄っぺらな快楽を病的なほど求めたり、自己に閉じこもったりする事によって、この喜びを生きていない。」多くの人はというんです。
現代社会では楽しいことはいっぱいあるかもしれない。一時的な喜びにつながるような、ショッピングだ、ネットだとか、楽しいことは山のようにあるかもしれないけれども、本当のところをわたしたちは心の底から喜びを生きているのかですね。それはパパ様の問いかけがあるように、それを生きなければならないと思います。
なぜそれが難しいのか。パパ様がこう言うんです。「現代世界における重大な危機は、個人主義の虚しさです。」一人一人がバラバラになってしまって、そこからくる虚しさに現代人は捕らわれている。なぜかというと「圧倒的な消費を伴う」つまり消費することに、物とお金を使う事にさらされているから、とも言えるでしょうし、この虚しさがあるから、先ほど言ったみたいに、楽な方を好む貪欲な心とか、薄っぺらな快楽とか、自己に閉じこもったりする。そういう事がわたしたちを喜びから遠ざけてしまっていることはあるかもしれない。これだけ豊かな日本で、逆に喜びが無くなっている。楽しみはいっぱいある。
そしてわたしたちクリスチャンは、この世の楽しみを生きるために呼ばれたのではなくて、イエス様がくださる喜びを生きていくようにする。だからこそわざわざカードを作って置いているのは、この福音の喜びをみなさんが一人一人しっかり見いだして、みなさんがどこで見いだすかは一人一人違うのでしょうけれども、わたしたちがちょっと見ていこうということですね。
パパ様が「福音の喜び」の中でどう言っているか。「わたしは全てのキリスト者に、どのような場や状況にあっても、今この瞬間、イエス・キリストの人格的な出会いを新たにするよう呼びかけたいと思いました。」今この瞬間。今みなさんが説教を聞いているこの瞬間、イエス・キリストとの人格的な出会いを新たにしてくださいと。そこにわたしたちの信仰者としての喜びがある。福音の喜びがあると、フランシスコ教皇がおっしゃっているわけです。どこでわたしたちはイエス様と共に出会いがあったのか。イエス様と共に生きたのかという事。それをわたしたちが問いかけたらいいと思います。
この五月になってから何を喜びなのか、わたしも振り返りながらですね、確かに疲れすぎたり、仕事が忙しすぎてイライラしたり、病的なほどの忙しさなどに巻き込まれたら、まるで喜びが無くなってしまう、司祭だからそうかもしれない。やはり、神様の前でたっぷり祈りの時間をとって、イエス様との交わりの時を持つと、自然と心から喜びが溢れて来るような気がします。あるいは人との出会いというのもそうかもしれない。
アッシジのフランシスコが兄弟レオーネと歩きながら、完全な喜びについてお話したとあるんですね。アッシジのフランシスコ自体が喜びに包まれていましたけれども、その中でも一番完全な喜びは何なのかというと、兄弟レオーネと話すんです。フランシスコが言うんです。フランシスコ会の修道生活の生き方が、多くの人にもっと広まって、多くの会員が増えたりすること、それは完全な喜びではない。それでアッシジのフランシスコは、たとえ天国の知恵とか神様の神秘を、わたしたちが知り尽くしたとしてそこに完全な喜びはないと。あるいはわたしたちが説教を聞いて多くの人が回心して、キリストに立ち戻ったとしても、ここに大きな完全な喜びはないと、ずっと兄弟レオーネが聞かされるんです。だんだん兄弟レオーネが分からなくなって、では完全な喜びとは何ですか。なんで無いかではなくて、完全な喜びは何なのかを教えてくださいと言うんです。そうしたらフランシスコはこう言うんです。わたしたち二人は、ボロボロな服を着ていて、みすぼらしい恰好をしている。雨が降っていて今日も泊まる所がない。だからある修道院に行って、今日泊めてください。と言ってドアをノックする。そうしたら中から門番の人が出てきて、あまりにフランシスコとレオーネがボロボロの服を着ていますから、お前たちなんか知らない、単なる物乞いなら出て行けとか言われて、結局その晩は修道院で寝ることができず、野宿してしまう。その時にこそ、フランシスコは完全な喜びがあると言う。なぜなら、イエス様が人々から蔑まれて、辱められたりしたから、その体験にわたしたち二人はあずかっているから、そこにこそ完全な喜びがある。イエス・キリストとの生き方との深い深い一致の中に完全な喜びがあると、フランシスコはレオーネに話したんです。それは有名なエピソードですけれども。
もちろんわたしたちにとって、完全な喜びにまでなかなかいけないですけれども。でも少なくともイエス様の生き方と、どこかで繋がっている時に、みなさんの生き方の中で、そこにこそ福音の喜びがあると思います。信仰の喜びを見い出すことができる。
みなさんの一週間の生活の中で、全く福音の喜びが無いとしたら、残念だと思います。でもどこかにあると思います。イエス様と共に生きた、イエスの価値に従う生き方が。それがみなさんの喜びであり、本当の宝だと思います。仕事が成功したとか、上手くいったとか、この世的な喜びももちろん色々ありますが、わたしたちが味わう時、喜びはイエス様の生き方に従う、その生き方にある。それをしっかり思い出しながら意識しながら、この一週間を過ごしましょう。
イエス様の福音にちゃんと書いてあるんですね。「私を愛する者は」つまりイエス様の生き方に本当に従うならば、「わたしの父に愛され、わたしもその人を愛して、その人にわたし自身をあらわす」イエスの愛を生きていく時に、父なる神とイエス様の愛にわたしたちが繋がれる。でもわたしたちの喜びは、そこだけだと思います。
パパ様が「福音の喜び」で皮肉っぽく書いてあるのは「復活なしの四旬節を生きているような信者もいます」一年中四旬節で、一年中暗い顔をしていて、一年中罪に捕らわれていて、一年中復活節なしの、四旬節だけの信者がいると言うんですね。
もちろんわたしたちにも四旬節もありますが、基本は復活した喜びですね。イエス様との生き方に繋がる、本当の喜びを生きることができる。これこそが本当の宝だと思います。わたしたちがその喜びをこの一週間、見出していくことができるように、それを生きていくことができるように神様にお祈りしましょう十

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第一朗読 使徒言行録  8章5-8・14-17節 

  フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 第二朗読 ペトロの手紙第一  3章15-18節

 (愛する皆さん、)心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです十

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                       2017 年 5 月 21 日(日)8時半ミサ
                       復活節 第6主日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記