カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-11-01 それでも喜び 希望 感謝

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マタイによる福音書 5章1-12節〈そのとき、〉イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。   「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
  柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
  義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
  憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
  心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
  平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
  義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 わたしのためにのしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」十

 今日の祭日は諸聖人をお祝いする祝日になっています。カトリック教会の典礼歴の中ではいろいろな聖人をお祝いする祝日がありますけれども、個人的には諸聖人の祝日が最も和むような気がします。それは多くの有名な聖人を特別にお祝いしていますけれども、この教会の二千年の歴史の中で無名だけれども、名も知れず小さく聖なる生き方をした人々がたくさんおられた。表に全く出ない、知られていない小さな人々が、隠れるように聖なる生き方を送ってきただろうと思います。それをお祝いしているので、隠れた聖人たちをお祝いすることで、今日の祝日がわたしが一番好きな祝日になったんです。
第一朗読で出てくる人々、十四万四千人の数え切れないほどの大群衆が集まったと書いてありますけれども、この小さな聖人というか隠れたかたちで信仰を生きた、そのような人々が神の国で神様を讃えている、ものすごい数の人々が、人知れず神様と共に生きてきたとあらわされているので、大いなる慰めを感じます。
聖人とは一体どういうことなのか。もちろん立派な行いをしたりみんなに模範になるようなことをした人であるといえばそうですが、目立つ行いとか、人ができない超人的な事をしたというよりは、聖人であるということの一つの意味は、今日の福音書にあらわれていて、八つの幸いで書かれている。聖人というのはこの幸いを知っていた人々、この幸いを生きた人々かもしれない。神の幸いを知っていて、神の幸いを生きている人々ではないかと思います。
一番最初に有名な「心の貧しい人は幸いである」それはやっぱりおかしいわけで、心の豊かな人が幸せなんです。この世の中では、心が豊かで余裕があって、そういう人々が幸いだ。というのがこの世の原理で幸いだと思うんですけれども、でもイエス様はあえて心の貧しい人が幸いであるとしたんです。
大船渡にいるケセン語で聖書を訳した人は、ここを「心細い人は幸いである」としたんです。心が貧しいといったら日本語として成り立っていない、心細い人は普通は幸せではないですけれども、でも心細い人がなんで幸せなのか。イエス様がいるからです。心細いから、神様しか頼れない、神様の恵みの世界を少しでも知るならば、心細い人は幸いを得ることができる。しかも神の国の、天の国の幸せを味わうことができるわけです。
次も「悲しむ人は幸いである」悲しんでいる人はこの世的にいえば不幸な人が悲しんでいるわけだから、悲しむ人々は不幸なんです。喜んでいる人が幸せ、悲しんでいる人は不幸である。でもイエス様ははっきり、「悲しんでいる人は幸いである」この悲しみはなんなのか。自分の罪を悔い改めているのかもしれない。あるいは隣りで悲しんでいる人の悲しみを受けとっているのかもしれない。あるいは自分に起った大きな不幸を悲しんでいるのかもしれない。でもその悲しみをイエス様と共に分ち合うならば、当然その人は神からの慰めを得ることができると思います。聖人というのは、このイエス様の幸いの秘訣を分かっている人だと言えるのではないかと思います。
鹿児島教区の今の司教様、郡山司教さまと知り合いなので叙階式に参加したんですけれども、叙階式のカードの言葉が忘れられないんですけれども、「それでも喜び、希望、感謝」というんです。悲しんでいたり、心が寂しかったりつらかったり。それでも神様がいるから喜ぶことができる。希望することができる。感謝することができる。それが郡山司教様の司教叙階のモットーにされていました。それはわたしたち一人一人がそれでも感謝できるか。それでもそこに神の喜びを見いだせるかどうかです。
ここにいるみなさんの中に、何人かは聖人がおられると思います。神様の幸せを知り、生きているならば、みなさんが全員聖人になることができると思います。みなさんが神様の幸いをどこかで感じたり味わったりすることがあるだろうと思います。
みなさん一人一人が聖人になるチャンスはいつも与えられていると思います。少し努力もいるかもしれないですけれども、努力というよりは、神の恵みをいかに見いだすかということです。第二朗読ではっきり書いてあります。「愛する皆さん、御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、それをわたしたちが心の中で受けとりそれを生きるならば、小さな目立たない聖人として生きていくのは可能だし、でもそれをわたしはみなさんに望みたいと思うんです。何も立派な人ができないようなことをするんではなくてです。
昨日が10月31日で、イエズス会の聖人のお祝いだったんです。アルフォンソ・ロドリゲスという方なんですけれども、その方はイエズス会のブラザーで割と歳をとってから入られたんですけれども、修道院の門番だったんです。イエズス会に入ってからずっと門番をしていたんですけれども聖人なんです。一人一人を迎え方が素晴らしかったんです。男性の人が来たらイエス様を迎えるつもりで、女性が来たらマリア様を迎えるつもりで、受付を生涯しただけなんですけれども、それによって彼は聖人なんです。特別立派な事をしたわけではなくて、ごく小さな仕事を愛の心で行った、神の愛の心で行なったので、それだけでその人は聖人なんです。
隣りに上智大学があって、SJハウスという大きなイエズス会の神父様が住んでいる修道院があるんですけれども、一時は百人以上の神父様が住んでいた時代があって、わたしより上の世代で、その中で誰が一番聖性が高かったか。ブラザーゲップという聖人だと思っていたんです。その人の仕事は雑用係。縫物をしたりろうそくを用意したり、人前で説教することは全くなかったですけれども、その人が聖人だと思っていたんです。特別な事は何にもないですけれども、特別な方でした。何が特別だったかといったら、修道院だったら、一人一人に個室があるんですが、その人にはなかったんです。地下の作業場しかなかったんですが、どうやって寝ていたのか誰も分からなかったです。ベッドで寝ていなかったことは確かです。
アルぺ神父様も特別な方で総会長をされている時は、世界中を周っていましたけれども、どこにいてもベッドで寝たことは一度もない。ベッドを使った形跡が一度もない。特別な聖人だったらそういう人は多いんです。
わたしたち一人一人は聖人になるように招かれていると思います。それは努力して、何かかっこよく生きるわけではなくて、ただ神の恵みを生きるだけ。自分の場で。おかれた場で、ただそれだけでいいと思います。それが難しい。だから郡山司教様は、それでも喜び、希望、感謝を持って生きようという。神の愛を思い出すならば、わたしたちは生きていけるのではないかと思います。
立派な大きなことをする必要は全くないので、わたしたち一人一人が神の恵みの世界、それを自分のおかれた場で、忠実に感謝と喜びを持って、生きていく。それをこの一週間、心がけていけるように神様にお祈りしたいと思います十

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第一朗読 ヨハネの黙示録 7章2-4・9-14節

 わたし〈ヨハネ〉はまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。
 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。
 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、
 誉れ、力、威力が、
 世々限りなくわたしたちの神にありますように、
 アーメン。」
  すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。]

第二朗読 ヨハネの手紙 第一 3章1-3節

〈愛する皆さん、〉御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます十

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                      2015 年 11 月 1 日(日)
                       諸聖人の祝日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記