カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-06-08 それでも聖霊の風が吹く

英神父 ミサ説教                聖霊降臨の主日  聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音章 20章19-23節 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十

   今日は聖霊降臨の主日にあたっていますが、聖霊降臨がどういうものであったのかというのは、今日の第一朗読、使徒言行録2章の1節から、イエス様が復活してから五十日後のできごととして描かれています。これが不思議な体験で、この激しい風が吹いてきて、炎のような舌が現れて一人一人の上にとどまって、そして聖霊に満たされて、他の国々の言葉で、話し出したというんです。不思議なのは、パルティアとかメディアとか地中海沿岸の国から集まってきて、言葉もさまざまな人々が「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞い」たという。つまり言語の壁を越えて互いが理解し合うことができるようになったという共同体体験なんです。この共同体体験があるから、この聖霊降臨をもって、教会が始まったというわけです。
でも不思議なのは、このお互い同士の言葉が通じ合うということなんです。これは英語と日本語の違いだから理解できないとか、日本語を喋っているから理解しているかというと、案外理解できないことは多々あります。あるいは家族は何年も何十年も家族と暮らしながら、お互いの事が分からないのは、わたしたちの現実としてあるわけです。聖霊の恵みによって、この言葉の壁が崩れるというか、互いを理解しあって、そこに神様の恵みを共有することができたと言えるわけです。
みなさんはこのような体験をされたことがどこかであるでしょうか。というふうに聞かれたら、みなさんはどう思われるかということです。
わたしの場合はどうか。3.11の震災のあと、わたしは主に釜石に支援活動で行っているんですけれども、震災の直後の釜石の教会は全くこの通りでした。神の恵みが溢れて、互いの壁を越えてお互い理解しあって、助け合って、分ち合って、祈りあって、周りの困っている人のために働いていた。その時の聖霊の働きの強さは驚くばかりです。お互いがどれ程一致して、助け合いの中で生きていたかと思い起こすだけで、胸が熱くなるような気がします。
もっと前になりますけれども、神戸の震災の時には、わたしは神戸の出身ですけれども、たかとり教会に神田神父様という方がおられて、全く同じことを言われていました。震災のあと、全ての壁が崩れて、助け合う以外ないんです。そこでお互い助け合って、神の恵みが溢れるような、言葉が通じないということは、結局心の壁ですから、わたしたち一人一人で区切っているわけです。自分は自分、他人は他人ということで、だから通じ合えない、お互いが理解できない、愛し合えない、赦し合えない。でも聖霊が働く時に、その壁が一挙に壊れてしまって、神様の風が吹いて、互いが理解し合って、愛し合って、赦し合っている。そういう世界が生まれたということなんです。でもそれはわたしたちの間に、今も生まれる。震災というのはものすごい不幸で特別な事でもあり、それがあればいいということではないですが、でもわたしたちが心にある捕らわれやプライドや何かを置いた時に、聖霊の風が吹くんです。そうすると相手を受け入れられたり、赦せたり、神の恵みを共有することができる世界が現れるし、わたしたちの間でこの聖霊共同体の体験を、今日も生きなければならないです。その恵みを今日も分ち合わなければならない。イエス様はそのために復活して、そのために聖霊をわたしたちに送ってくださっているんです。
聖書でもはっきりしています。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」ヨハネの福音書の聖霊降臨の部分です。復活した主が直接息を吹きかけられて、聖霊を与えてくださった。何のためかといったら、「あなたがたを遣わす」 恐れとか捕らわれていて、弟子たちは戸を閉めていて、自分たちだけでやります、みたいな感じになっている。心を閉じていたのに、遣わされるんですから、扉を開いて出ていきなさいと。状況は別に変わらない。苦しみとか困難はあるでしょうけれども、でも心を開いていきなさいと、聖霊の力が働いて、そして何を言うのかといったら、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」赦しの力も与えているんです。これは愛の力の側面だと思います。わたしたちは赦せないとか愛せないとか、理解できないとか自分の殻に閉じこもったり、相手が閉じこもっていることを責めたり、孤独だとかこの苦しみだとか、でも主がみなさんに息を吹きかけて、その壁を壊してくださる。だからわたしたちの方は握り閉めている、自分が自分がとか、これがダメだとかを手放さなければならない。自分で壁を作るんですから。それを手放す時に風が吹いて、みなさんの中に人を赦す力、愛する力、互いに理解するようにする恵みを今日もくださる。みんさんの中に聖霊の恵みが、いつでも働こうとされているんです。わたしたちの方がそれに心を開くかどうかなんです。今日も神様はわたしたちに聖霊の恵みを与えてくださっています。むしろうまくいっている時よりも、うまくいっていない時に、聖霊の風が吹くんです。
ヨハネの福音書では十字架のイエス様の死で打ちひしがれてどうしようもないという、お手上げの状態の時にイエス様が復活して恵みをくださったんです。この神様にわたしたちは心を開いて、この聖霊の風を受けて、この一週間、歩みたいと思います。
鹿児島に郡山司教様がおられて、最も尊敬する司教様の一人で親しくさせていただいているんですけれど、司教様の司教叙階式のカードのメッセージで「それでも喜び 希望 感謝」と書いてあるんです。わたしたちの中には苦しみや辛さ、闇とか苦悩とか理解できないことはいっぱいあるけれども、それでもわたしたちは喜びと希望と感謝にのっとって生きていけるという、司教叙階の時のメッセージなんです。なんでそれでも生きるのか。聖霊の働きがあるからです。わたしたちが聖霊の働きに心を開いて、それでも何かをしようとした時に、聖霊の働きが働くんです。釜石は全くその通りでしたから、そこに集まったボランティアは、ごちゃごちゃの苦しみの中で何にもなくなって、それでも何かしたいと思って集まったからこそ、聖霊の風が働いて神の恵みがものすごい膨れあがるんです。現実の苦しみに負けてはいけない。それでもそこで立ち上がるか。それでも神様に委ねてそれでも神様を信じて生きようとする時に、聖霊の働きがわたしたちの心を、わたしたちの間を爽やかな風が吹いて、喜びと希望と感謝が与えられている。その約束がみなさんにあることですから、この聖霊の恵みがわたしたちに恵みを受けて、聖霊の恵みのうちに歩んでいくことができるように、このミサでお祈りしたいと思います十

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第一朗読 使徒言行録 2章1-11節

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 12章3b-7・12-13節

〈皆さん、〉聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです十

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                      2014 年 6 月 8 日(日)
                       聖霊降臨の主日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記