カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2014-06-15 三位の愛に招かれて

英神父 ミサ説教                三位一体の主日 聖イグナチオ教会於 

ヨハネによる福音書 3章16-18節  神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである十

 今日の主日は三位一体の主日にあたっています。キリスト教で一番独特な教義は、一つは三位一体だと思います。神様は三つのペルソナ、父と子と聖霊の三つのペルソナでありながら、一つの本質を持っていると、同じ神様であるという、キリスト教独自の教義があるわけですから、それを理解したりするのは難しい、と思われているところもありますが、わたしにとって三位一体の神秘というのは、キリスト教にとっては、当たり前の事だと思います。
何が当たり前かというと、キリスト教の最大の神秘は、神様は愛であるということです。神様が愛であるならば神様自身が愛し合っているのは当然だと思います。神は愛であることの徴が三位一体である。つまり神様自身が神様の中で互いに愛し合っている存在だということなんです。
神が愛であるということと、三位一体が深くつながれているのは間違いないと思います。なぜ二つのペルソナでなくて、三つのペルソナなのか。互いに愛し合うなら一対一でいいかもしれない。でも本当の愛というのは二人の人格的な交わりにとどまらないんです。本当に愛し合うならばどこかに新たなものを生み出していくからです。互いに愛し合うというのは三つのペルソナが必要だということです。だから互いに愛し合いながら、神は愛であるということを、わたしたちに示している事だと思います。
さらに言うならば、わたしたちはクリスチャンであるということは、三位の神の交わりに、わたしたち一人一人も招かれているということなんです。それはどのように招かれているのか。
三位一体のイコンというのがあるんです。三人の男の人がテーブルを囲っている有名なイコンがあるんですが、あのイコンが三位一体の神秘を語っているけれど、わたしはあのイコンでは十分ではないと個人的に思うんです。一つのテーブルを三人の男の人が囲っていて、愛の交わりを語っているわけですが、父と子と聖霊の交わりは、もっとダイナミックだと思います。なぜかというと御父がイエス様をこの世に派遣したということとして、イエス様が派遣されて十字架に架かって苦しまれたり、人々をいやしたり助けたり、それはテーブルを三人で囲って仲良くやっているそのような姿ではなくて、三位のダイナミズムはいつも派遣されたり、そこで苦しんだり人々の救いのために戦ったり、そのような生きたダイナミズムの中に三位一体はあるんです。
ただ単に仲良くしているというよりは、むしろ派遣されたり苦しんだり、戦ったりイエス様のように御父に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言わなければならなかったり、愛のダイナミズムはいつもいつも苦しみと喜びと、慰めと力づけと人々の苦しみと、大きく関わっているということ。だとするとわたしたちは三位一体の交わりに招かれているのは明らかです。わたしたちもイエス様から遣わされているし、苦しみに直面しなければならないし、ある時は大きなお恵みが得ることができる。
残念ながらわたしたちには罪が混じっていますから、愛し合えなかったり苦しんだり、憎しみ合ったりということがある。でもそのダイナミズムの中でこそ、三位一体の恵みがわたしたちの中にも生きてくる。苦しみの中で御父に叫ぶこともあるでしょうし、ある時聖霊に助けられる時もある。ある時イエス様の道を、苦しくても歩まなければならない時もある。
三位の交わりにわたしたち皆が日々の生活の中で招かれているし、既にその中に入れられているかもしれない。それを神学的に難しく言うとカール・ラーナーという人が言っているのは、三位一体の内的な交わりというのは経綸的な交わりで、つまり歴史の中で展開されてくる三位一体の交わり、神様の中だけが三位一体ではなくて、わたしたちの歴史そのものの中に、三位一体の交わりが展開されていると、その通りだと思います。
みなさんの中で、ある時は孤独で苦しんでいる人がいるかもしれない。誰とも交わりがなくて、孤独の中に陥ることがあるかもしれない。でも孤独というのはあり得ない。既に三位一体の交わりの中に生きているわけですから。でもその孤独を突き破って三位の交わりが、わたしたちの生活を通して現れてくるわけです。
そして誰かと共に生きるのは、難しかったり、苦しかったり、辛かったりする。でもそこに神の赦しやそれでも、互いに愛し合っていく恵みが働くということは、わたしたちが既に三位の交わりの中に招かれているからです。それを実現するように呼ばれているわけです。本当に素晴らしいお恵みの中に愛を生きていくために、神様はわざわざ三位一体でいる。そしてその三位の交わりにわたしたち一人一人が今日も招かれているということです。
この第二朗読の終わりで、それは見事に語っていると思います。「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように。」これはミサの言葉の中にも入っていますが、あなた方一同に、共にあるようにとパウロが願っているわけですから、わたしたちは共にあるわけで、主イエスの恵みと神の愛と聖霊の交わりがまさしくみなさんと共に生きている。それをさらに日々の生活の中でこの三位の交わりをさらに生きるように呼ばれている。しかもその恵みが与えられているということです。
ここはイグナチオ教会という、なぜならイグナチオ・ロヨラだからイグナチオ教会というんです。イグナチオはマリア聖堂のステンドグラスになっています。イグナチオ・ロヨラは三位一体の神秘を深く味わっていた人なんです。彼は祈りの中で、その三位の交わりにそれを体験していた。だから彼の晩年は、涙なしにミサはたてられなかったんです。たぶん一人でたてていたんですけれども、いつもいつも三位の交わりで、彼の霊的日記を読むと涙、涙で三位の恵み。交わりに圧倒されいつも泣きながら、ミサをたてていた事は明らかなんですけれども、もちろんそこまで感じられるか別ですが、わたしたちは既に恵みの中に歩んでいる、本当に素晴らしい神秘の中に、わたしたちは生きているということは確かですから、それが少しでも意識して実感して生きれるように。そしてこの一週間、三位の交わりの中にわたしたちは歩んで、だから人を赦したり受け入れたり、孤独に打ち勝ったり、周りの人々と共に歩んでいく力が与えられるということ、それを意識しながら、この一週間を過ごせるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 出エジプト記 34章4b-6・8-9節

〈その日、〉モーセは朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(た者。)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第二 13章11-13節

 兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように十

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                      2014 年 6 月 15 日(日)
                       三位一体の主日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記