カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-06-25 イエスの仲間として

英神父 ミサ説教                          聖イグナチオ教会於

マタイによる福音 10章26-33節〈そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〉「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。  だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」十

  今日の福音書はマタイの福音書10章ですね。 ここは福音宣教、弟子たちが遣わされて、人々に福音を述べ伝えるのにどういう心構えでいなければならないかということが書いてある章なんですが、その中の一部が読まれます。人々を恐れてはならない。周りの人の思惑、考えとかそういうものに恐れないようにとまず言っている。
そして、わたしの仲間であるということを言い表しなさいとというわけです。イエス様の仲間である。洗礼を受けている方々はイエス様の仲間であるということです。それを人々の前でしっかり言い表しなさいということです。そうすると、天の父の前でイエス様が、この人は仲間であると、ちゃんと保証してくださるというわけです。
わたしたちの一つの大切なことは、イエス様の仲間であるという生き方をするかどうか。イエス様の仲間として生きていくということです。それをわたしたちが、心掛けなければならない。あるいはイエス様の仲間であるっていうことは、どういうことなのかということですね。それをちょっと問いかけてみる必要性もあるかと思います。
ちょうど今、パパ様がフランシスコ教皇になる前の映画が公開されていて「ローマ法王になる日まで」ですね。みなさんせっかくカトリック信者なので、是非とも観られたらいいと思いますけれど、今週ぐらいまででしょうか。
同じ修道院の神父様は、アルゼンチンにいる時から教皇様のことをよく知っている人ですが、映画の俳優さんが教皇様にそっくりだというんです。ああいう顔つきで、ああいう喋り方で、俳優の人はすごく上手いと言っていました。ちろんわたしたちは知らないですけれども、まさしくああいう感じで、あんまり笑わなかったそうで、パパ様になってからよく笑うようになったと言われています。
教皇様は本当にイエス様の仲間であるのは間違いないと思います。イエス様の仲間であるとはどういうことかというと、貧しい人や、苦しんでいる人々の仲間であるということだと思います。
日本とは違う、もっと複雑なカトリックの国での状況ですけれども、つい教会の権力者の仲間になってしまうわけですよね。権力者に巻き込まれて、権力者になればなるほど、貧しい人や、苦しんでいる人々が遠ざかってしまう。それをイエス様の仲間であるということは、なかなか言えないであろうと思います。だから人々を恐れるなということも、セットだと思います。
教皇様の伝記も出ていますが、軍事政権とか色んな人と、戦わざるを得なかったんです。何でかといったら、ただひとつ、貧しい人や苦しんでいる人を助けるために、そっちの側に立つと、軍事政権の大統領だったり、あるいは様々な権力だったりと戦わざるを得ないわけだから、恐れを振りほどいていかなければならないわけです。それを今でも彼の立場はずっと同じだと思います。
わたしたちはイエス様の仲間である生き方を、人々に振り回されないないで貫いていくように呼ばれているということです。
ただそれは簡単なことではないと思います。人々の前で、「わたしを知らないと言うものは、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と書いてありましたけれど、聖書の中で、人々の前で、イエス様を知らないと言ったのは誰かと言ったら、ペトロですね。弟子のリーダーからして知らないと言った。それは恐れに捕われて、振り回されていて。それはわたしたちの現実も語っていると思います。
今年の1月頃に、公開されていた「沈黙」という映画がまさしくそうでした。仲間であると言えるか言えないか。なかなか難しいわけですよね。迫害され、自分の命も取られるという中で、結局主人公の外人の宣教師の神父様は、知らないと言って踏み絵を踏むわけです。その人が本当に仲間でないと言えるかどうか分からないという問いかけの映画でした。
キチジローという、とても弱い人が出てくるんですけれど、それは遠藤周作のアイデンティティーを表していると言われていますけれども、何回も踏んだり裏切ったり、イエス様をバカにしたりするんだけれども、イエス様を捨てられないんです。結局、捨てたと言いながら、イエス様の仲間であるということを語っている。わたしたちが少々失敗しても、わたしたちはイエス様の仲間として、毎日生きていく。その恵みはわたしたちに訴えられているといいます。
神の慈しみの信心の出発点になったのが、ポーランドのファウスティナにイエス様が現れて、去年、慈しみの大聖年だったんですけれども、ある時イエス様がファウスティナに言うんです。
わたしが一番がっかりしていることは、あなたがおかした数々の罪の事ではない。あなたがおかした罪はわたしが全部赦しているので、あなたが罪をおかすそのものについて、わたしはあなたに対して、ガッカリしていない。何を一番がっかりしているかというと、心の底からわたしを信頼していない事だというんです。人間が弱いのは分かっているから、どれだけわたしたちが神様に信頼して生きるか。その信頼して頼ってくれることを、自分は望んでいるんだということを、イエス様はファウスティナに言うんですけれども。
イエス様の仲間であるということは、失敗するとかしないとか、罪をおかしたとかおかさなかったとかいうよりも、イエス様を心から信頼して歩み続けられるか、ということであると思います。だからわたしたちは、単純になるわけです。良い事があったらイエス様に感謝して、失敗したら、神様にごめんなさいと赦しを願って、何か困った時は、助けてくださいと願いながらわたしたちは歩んでいく。
ミッション2030の今月の祈りは、神との生きた交わりを深めましょうというのが、今月の祈りですが、仲間として生きていくことですね。イエス様の仲間として、歩んでいくということが、実際のテーマだと思います。
だめな時はごめんなさい。助けてくださいというわけだし、恵みがある時は感謝して、賛美して、それが仲間であるということの、わたしたちの等身大の生き方だと思います。
主はそれで喜んでくださっていると思います。失敗したら立ち直って、また道を戻る。上手くいった時は神に感謝して、足らないところは主に助けを求めながら、日々の生活を歩んでいく。表面的には上手くいったかいかないかというより、イエス様の仲間としてわたしたちが歩んでいくならば、それは結局わたしたちにとっても幸せだし、イエス様も一番喜ばれるわけです。
みなさんこそイエス様の仲間ですから、わたしたちはイエス様を信頼していく時に、イエス様は本当に嬉しいと思います。仲間がいっぱいいるならば、励まされると思います。
わたしたちは人を恐れないように、周りの人になるべく振り回されないように、イエス様の仲間として歩んでいけるようにこのミサでお祈りをささげましょう十

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第一朗読 エレミヤ書 20章10-13節

(エレミヤは言った。)わたしには聞こえています多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆,
わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて我々は勝つことができる。
彼に復讐してやろう」と。しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない、とこしえの屈辱である。万軍の主よ正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。

第二朗読  ローマの信徒への手紙 5章12-15節

 〈皆さん、〉一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです十

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                     2017 年 6 月 25 日(日)10時ミサ
                     年間第12主日 〈緑〉A年
                     カトリック麹町教会 主聖堂於
                     イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記