カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-11-08 捧げる

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マルコによる福音書 12章38-44節〈そのとき、〉 ≪イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」≫  イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」十

 今日の福音書はイエス様がエルサレムに入場した後です。エルサレムの神殿の中での一つのできごとが語られています。神殿というのは日本でいえば神社やお寺みたいなものですから、献金を入れるというのは普通のことと思います。大勢のお金持ちがたくさんの献金をしていた。それに対してこの貧しいやもめが、レプトン銅貨二枚、百円前後ぐらいのお金を、それはごく小さな献金で、別に目立つものでも何でもなかったでしょうけれども、イエス様がこの献金を高く評価されたんだと思います。誰よりもたくさん入れたという。 多くの人は有り余る中からというのがわたしたちの普通の態度だと思いますけれども、この人は乏しくも、持っているものの中から全て入れたといいます。百円が持っているものの全てだといいますから非常に乏しかったということは間違いないと思います。
でもこの話を読む度に、何か励まされるような気がするんです。わたしたちの持っているものは大したものを持っていないんですけれども、わたしたちはどれほど寛大に主に捧げて生きているか。量とか人の評価とか関係なしに、わたしたちの持っている乏しいものを、どれだけ神様に寛大に捧げることができるか、それを神様が評価してくださっている。神様は見守ってくださっている。だからわたしたちは神様の見守りの中で、わたしたち一人一人ができることを、神様に捧げていくように呼ばれているんだろうと思います。
それもできればわたしたちの持っているものをお金のことだけではなしに、わたしたちの時間とかエネルギーとか心とかを、仕事、家庭生活、様々な活動を通して自分自身の全てを神様に捧げられるかどうかと思います。
タゴールというインド人のお話の中に、一人の貧しいホームレスの人がいて、物乞いで生活していたけれど、ある国の王様が、お金持ちですけれども、寛大な方であるという評判を聞いたんです。その人のところに行ったら、たくさんのものをもらえるんではないかと思って、ホームレスの人は王様のところに行ったんです。大きな宮殿に住んでいて、宮殿の前で座っていて、王様が来たら何か物をもらおうと思っていました。そして王様の綺麗な馬車の行列できて、彼は王様に聞こえるように大声で「なにかください」と言ったんです。そこに馬車が止まって下りてきたんです。ホームレスの人の前に歩いてきて、彼は王様から何か貰えると思って喜んでいたら、その王様は彼の前に来て、王様の方が手を出すんです。王様の方が何かくださいと言ったので、しかたないから一袋のお米を持っていたんです。その中から2粒だけ、王様の手のひらにのせたら、王様がニコニコして二粒のお米を握ってそのまま馬車に入っていったんです。それでホームレスの人は何かもらえると思ったら、王様の方から手を出されました。
そして近くの川辺で一夜を過ごしました。明け方に自分の持っていたお米の袋の中から何かピカピカ光っているんです。不思議に思って袋を開けてみたら、二粒分の金の粒が入っていた。これが王様からのプレゼントだった。でも自分はケチって二粒しかあげなかったから、二粒分の金しかもらえなかった。袋ごと捧げていたら、全部金になって、自分はホームレスから脱出することができたのに、後から残念がったというお話です。タゴールはその物語に奉献、捧げる、というタイトルをつけているお話です。
神様は王様以上に大金持ちなんです。だから何か必要かといったら、何も必要ではないですけれども、神様はわたしたちが自分の持っているものを捧げることを喜んでおられる。そしてわたしたちが捧げる以上のものを、いつもよりも神様は豊かに恵んでくださるわけです。
でもわたしたちの方がケチケチして 神様の恵みもわたしたちに神様の豊かさを味わえないでいます。それはきっとわたしたちの心というか、わたしたちの心が狭いから、神の恵みの働きが弱いようなものなのかもしれないです。わたしたちが完全に神様に心を開いて、全てを委ねれば、神様は全知全能ですから、この世の大金持ちも誰も叶わない位、全てを持っておられる方が、わたしたちにいくらでも、多くの恵みを分ち合ってくださると思います。その恵みは当然、自分のためというより、周りの人々のために広がっていく、そのような大きな恵みだろうと思います。
マザー・テレサが生きている頃、ある人が質問したんです。この世にはたくさんの苦しんでいる人がいて、あなたの活動は極々小さくて、世界の貧困を解決することができないでしょう。と聞くと、マザー・テレサは「大海の中にスプーン一杯を注ぐと注がないとでは全然違う。小さなわたしたちにできることをすることが大事なんだ。」マザー・テレサが生涯捧げたものは、レプトン銅貨二枚の小さなものかもしれないけれど、彼女が捧げたので、多くの人がその心に感動して、マザーにならって、多くの善意ある行動をとったのは間違いないと思います。彼女の小さな捧げが、多くの人に恵みをもたらして、いろんな人の心をいまだに動かしているということは事実だと思います。
わたし自身もホームレスの活動をしていた時がありますが、マザー・テレサがきっかけで来た方が、クリスチャンではなくても何人もいました。一人の人が自分自身の全てを捧げるならば、神様はその捧げに応えて、豊かな恵みをその人だけではなく、多くの人にくださると思います。わたしたちはそのような恵みの世界を生きているわけですから、自分の小さなことでケチケチしたり足りないとか言ったり、そういう気持ちだけならば、残念に思います。
わたしたちは大金持ちの神様の子供ですから、神様は何でもわたしたちに分ち合ってくださる。その神様の大きな恵みに生きていけるように、捧げるものは小さいものだとしても、寛大な神様の大きな心をわたしたちの心に刻んで、そして神様の大きな心を持って、日々の小さなこと一つ一つを大切に、心を込めていくことができるように、このミサでお祈りしたいと思います十

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第一朗読 列王記 上17章10-16章

 〈その日、預言者エリアは〉立って、サレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
 主が地の面に雨を降らせる日まで
 壺の粉は尽きることなく
 瓶の油はなくならない。」
 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

第二朗読 ヘブライ人への手紙 9章24-28節

 キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった(のです。) また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

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                      2015 年 11 月 8 日(日)
                       年間 第 32 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記