カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-07-16 神様の親心

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マタイによる福音書 13章1-23節 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。 

 イエス様はいろいろなたとえ話をされますけれども、今日の種まきのたとえは有名なお話だと思います。もちろんこの話を聞いて、わたしたちは自分自身が良い土地であるかどうかということを、振り返ったりするかと思いますけれども、でもこの種をまく農家の人から考えたら、この話は奇妙なお話だというふうに個人的には思います。日本で農業やる人で、よい土地以外に種を蒔く人はいないと思います。つまり種というのは重要なものであって、そんなにおろそかにできないものですから、道端に落ちたり石だらけの土の少ないところに、茨の間とか、日本で農業していたら種を蒔く可能性はゼロだと思います。
良い土地にだけ蒔いて、そこからたくさんの収穫を得ようとするのだと思います。でもこのお話は、よい土地だけに種が蒔かれていない。むしろそのどういうところでも、種蒔く人が蒔いているという、奇妙なお話だと思います。
つまりこのお話は農業としてはおかしいですけれども、父なる神様の寛大な心というか、そこから考えるならば、どこにでも神様が種を蒔いているところがこのたとえの一番素晴らしいところではないかと思います。
神様がもし良い土地だけにしか種を蒔かなかったら、みなさんに種が蒔かれたかどうかもよく分からない。つまり良い土地ではないところでもどこであろうが、どういう人であろうが、おしみなく種を蒔き続けている。それがいつか芽が出るか分からないし、いつかどうなるか分からないけれども、神様が誰にでも、どういう時にでも、神様がわたしたちに種を蒔き続けてくださっている。この神様の愛の寛大な心、それがこのお話のわたし自身が一番感動するところです。誰にでも良い土地であろうとなかろうと、神様はわたしたちに恵みを、種を蒔いて芽が出ることを期待しておられる。そのようなわたしたちの側に寄らない、神様の心の大きさ、それを語っているような感じがします。だからこそわたしたちは、そのような神様に信頼するからこそ、少々失敗しても、だめな事があったとしても、主に信頼して、歩み続けることができるのではないかと思います。
今月はミッション2030の祈りのカードで家族のことを見直しましょうというか、お祈りしましょうと今月はなっています。わたしは元々この教会をメインで働いて、他の教会をあまり知らないんですけれども、時々は女子高のミッションスクールに何か手伝いに行ったりすることがあるんですが、だいたいそこにはお父さんの会というのがあって、そういうところで男同士で割と盛り上がって、一緒に食事したりしているんですけれども、そういうお父さんとしゃべっていて、娘さん達が何歳からお父さんと口をきかなくなるかと、小学校の頃は仲良く喋ってくれたのに、ある時からだいたいお父さんと全く口をきいてくれなくなるのが普通なんですけれども、だいたい中2ぐらいから全く口をきいてくれないのが、ほとんどだったんです。これでお姉さんがいたら、小学5年生頃から、全く口をきいてくれなくなるというのが、だいたい通例なんです。
お父さんというのは本当に可哀想だと思いますけれども、だいたい奥さんから疎まれているし、娘さんからも無視されている感じで。でもそのお父さんたちをみていて思うんですけれども、娘さんたちが自分と口をきいてくれようがくれまいが、どんなに冷たい態度をとろうが、娘さんを心から愛しているというのがひしひしと伝わってきます。だから娘さんが思春期でどうであろうと、お父さんの娘に対する愛は全く揺らがないというか、心から娘たちを愛している。でも全く受け入れられていないんですよね。中学2年生ぐらいから全く口をきいてくれない、いつまで続くか分からないですけれども。そういうお父さんたちの何があったって子供を愛している姿勢をみると、やっぱり今日のたとえ話の良い土地だから種を蒔くわけではなくて、茨であろうが、道端であろうが、全く揺らがず、愛し続けるというか、愛おしく思ってずっと見守り続けている。そのお父さんたちをみていると、神様の愛が、無償の愛、報いを全く求めないで、ただ愛し続けていることをすごく思い出すんですね。
そのようなお父さんの愛を受けた娘さんたちが、まともに育たないはずがないと思います。一時的に全く口をきいてなくても。何があったってゆるぎなく愛し続けている、お父さんの愛を受けていたら、大人になったら子供たちが立派に育つだろうなと強く思うことですけれども。
神様はわたしたちをそのように愛しておられるのは間違いないかと思います。わたしたちのほうがふてくされていて、道を外れたり、何か違うことをやったりしても、神様はわたしたちを全く揺るぎなく慈しみをもって、愛し導いておられるというのは間違いないと思います。
わたしたちのほうが頑なであったりとか、拒否したりとか、関係ないとか、神の愛にですね。そこにわたしたちが心を開いた時に、それが分かった時に、わたしたちの中に本当に三十倍、六十倍の祈りが身を結ぶのではないかと思います。
神様の愛の大きさにわたしたちは勝てないと思います。どんなに反抗しても。その神様の大きな恵みに、信じられないぐらい、本当の親ばかということですよね。どうであろうと子供を愛し続ける、そのような親心というか。そのような神様にわたしたちは信頼して歩んでいけることができるようにお祈りをいたしましょう十

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第一朗読 イザヤ書 55章10-11節
 (主は言われる。)雨も雪も、ひとたび天から降れば

むなしく天に戻ることはない。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ

種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読 ローマの信徒への手紙 8章18-23節
 (皆さん、)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます十

 

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                         2017 年 7 月 16日(日)7時ミサ 
                       年間 第 15 主日 〈緑)A年
                                                              カトリック麹町教会 主聖堂於 
                      イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記