カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚このブログは、イエズス会の英(はなふさ)神父の公式サイトと連携しています☆ ☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2014-07-20 麦か、毒麦か

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マタイによる福音 13章24-43節 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」十 

 マタイの福音書13章では、天の国のたとえ話です。かの国では神の国のたとえ話を集めた形でイエス様が語られています。今日のところは神の国の一つの姿を描いているわけですが、それは何かというと、神の国というのは普通の麦と毒麦が、混ざって育っているという、それが神の国の一つの姿というわけですね。
これは不思議な気がします。なぜかと言ったら、神の国といったら毒麦がなくて、ただ麦だけが育っているのが、神の国だというふうに、普通だったら考えるわけですが、でもこのたとえ話は純粋な小麦ではなくて、麦と毒麦が混ざって、それをしかもすぐに抜かないで、両方が育つままにしていくとそれが神の国の一つの姿というわけですね。
非常に不思議な感じがするんですが、なぜかというと毒麦だと分かったらすぐ抜きたくなるんですね。あるグループなんかに毒麦みたいな人がいたら、とにかくこの人さえいなければ、家族の中でもそうだし、この人さえいなかったらうまくいくんじゃないかと、むしろ毒麦を引き抜きたくなるのが人間の普通の気持ちで、でもそこで毒麦を勝手に引っこ抜いてしまって、捨ててしまうことは神の国の生き方に反すると書いてあるんです。反すると書いてあるんですから、神の国の中では、毒麦と麦がいわば混在して育つような、それが神の国であるというわけなんです。そのイエス様の教えの意味というか、それをわたしたちは理解しなければならないと思います。
一番大事なポイントは何かというと、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」つまり何が麦なのか、何が毒麦なのか、これはよくわからないから、よく注意する必要性があるというか識別するということなんですけれども、わたしたちがこれが毒麦かと思ったら、それが麦だった。あるいはこれが麦だと思ったら、毒麦だったということがあるわけで、その中でわたしたちは神の国の大切なメッセージを実は学んでいくことができると思います。
サスペンスドラマでは怪しいと思う犯人の人が出てくる。いかにも悪そうな、だいたい広い社長室にいてですね、だいたいゴルフのパターが置いてあってやっている。いかにも犯人らしいですが、それは必ず犯人ではないんです。サスペンスドラマのお決まりですけれども、ゴルフのパターがでてきたら、この人は犯人ではないということを実際は語っているんですけれど、いかにも犯人そうな雰囲気で出てくるわけですけれども、最終的に犯人は近くの犯人じゃなさそうな人になるというですね。毒麦か麦かとなったら、最初はその人が毒麦かなと思うと案外毒麦ではなくて、麦かなと思っている人が最後は毒麦であるということですから、わたしたちは軽々に判断することは非常に難しいことですね。
昔に見たフランスの映画で、変人クラブというコメディの映画があったんですね。筋書きはフランスのお金持ちの人々のクラブがあって、暇つぶしだと思うんですけれども、ちょっと変わった人を呼んで、変わったことをさせて、いかにその人が変人だったかを笑うクラブで、ブーメランを投げる人とかちょっと変わった人とかが出てきて、ある時に来たのはマッチ棒でお城を作ったり船を作ったりする人が出てきて、いかにもその人の前では素晴らしいとかいいながら、あとの飲み会では笑いものにしている。そのような感じのところから始まるんですけれども、
その変人の人がなぜかお金持ちのグループの中に紛れ込んでしまって、お金持ちがやっていた脱税とか浮気とかがどんどん変人の人によって暴かれてしまう。そうしたドタバタのコメディなんですけれども、その最後のところが良くて、お金持ちの中でたった一人の変人が来て、みんなその人が変だと思っていたんですけれども、最後に分かるのが、むしろ変なのはお金持ちの人たち。むしろ変人だと思われた人は、むしろ本当に愛を生きていて、真正直でストレートに生きているのがだんだん分かってきました。お金持ちの方は脱税したりしていたのが分かったり、ごまかしていたり、浮気していたりとか、変人を通してどんどん悪事が暴かれてきて、最後の最後は、その変人の人が、お金持ちのカップルがもう一度やり直せるようにその変人の人が助けて、お金持ちの仲が悪かったカップルが仲直りを最後はするんですけれど、どっちが変な人なのか、映画の始まる時には明らかにマッチ棒で何か作っている人の方が変なんですけれども、映画の終わりではむしろ笑っている人々の方が、みんな変な人だったということが分かるんですね。
どっちが毒麦なのか、どっちが麦なのか、案外これは分からないと思います。少し東洋的な白黒はっきりしないという、考え方も混ざっているかもしれない。
考えたらファリサイ派の人にとって、イエス様は毒麦だったんですね。秩序を壊すから。だから毒麦を抜きましょうということで、イエス様を殺してしまったわけで、毒麦を勝手に引っこ抜くってことが、大いなる悲劇を招くことがあるわけですね。逆にイエス様はどうされていたのか。毒麦だと思われた、罪人とか、徴税人とか、娼婦とか一緒につきあって、一緒に食事をしていたわけですね。
イエス様は毒麦だと思われる人を全く排除していないのですから、逆にファリサイ派のような真面目な人が、麦だと思われていた人たちを、いわばイエス様が偽善を暴いていくことになるわけです。
だからみなさんもあの人が毒麦で自分が麦だと思っていたら、もしかしたら逆かもしれない。その人が麦で自分が毒麦かもしれないですから。でもわたしたちはだから回心したり見直したり自分の生き方を振り返ったりすることができる。だから裁きはずっと先なんですね。わたしたちが自分の生き方を絶えず見つめ直しながら、一番大事なものはなんなのかということを、見つめることが毒麦を通して与えられることはあるわけですから。でも毒麦によって回心できたら、毒麦が果たして毒麦と言えるかどうかも分からなくなっていくのですね。
少なくともわたしたちは麦であるという傲慢を持つことは、大いなる危険だと思いますね。自分の中にも毒麦のところがあるんではないかということを、丁寧に振り返って、できれば麦と毒麦が両方とも全ては麦に変わっていく、それこそが本当の神の国でしょうけれど、それをわたしたちは目指していると、大事なんではないかと思います。
軽々にとにかくだめだとか、こいつはだめだとか引っこ抜いた方がいいとか、いなくなった方がいいとか考える考え方が、神の国から一番遠いということなんです。いかに毒麦だと思われる人と、わたしたちは共に歩むかそしてその中でわたしたちは回心や生き方を見直すことを招かれていることが多いわけですから、イエス様が本当に何を大事にされたのか、イエス様が誰と付き合って、何を伝えたかったのかですね、それをわたしたちは問いかけながら、自分の生活の中で神の国を生きていくとはどういうことなのかですね、それはよく考えながら、この1週間わたしたちがイエス様が望む神の国を自分が望む本当の神の国ではなくて、神様が考える、イエス様が考える神の国が、自分の生活の中にどのように実現したらいいのかということをしっかり考えながら、この一週間神の国の中で、神の国を作っていく生き方ができるように、お祈りしたいと思います十

☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆

第一朗読 知恵の書 12章13.16-19節

  すべてに心を配る神はあなた以外におられない。
  だから、不正な裁きはしなかったと、
  証言なさる必要はない。
  あなたの力は正義の源、
  あなたは万物を支配することによって、
  すべてをいとおしむ方となられる。
  あなたの全き権能を信じない者に
  あなたは御力を示され、
  知りつつ挑む者の高慢をとがめられる。
  力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、
  大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる。
  力を用いるのはいつでもお望みのまま。

  神に従う人は人間への愛を持つべきことを、
  あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。
  こうして御民に希望を抱かせ、
  罪からの回心をお与えになった。

第二朗読 ローマの信徒への手紙 8章26-27節

〈皆さん、”霊”は〉弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです十

☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆

                     2014 年 7 月 20 日(日) 
                       年間 第 16 主日  A年 
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                          イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記