カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-08-30 神の恵みによる浄め

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

ヨハネによる福音書 3章16-18節 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである十 

 今日の福音書はイエス様がファリサイ派や律法学者の人といわば律法論争のようなことをすする箇所です。ユダヤ人たちは立法で細かい規定があって汚れを嫌っていて、食事の前に汚れを落とした後、手を洗ってから食事をするという厳密な習慣がありました。今でもイスラエルに旅行したら正統派ユダヤ人が入るレストランにはちゃんと身を清江める水道がちゃんとあって手を洗ってからちゃんと入るようにできていたんですけれども、それに対してイエス様と弟子たちは、それほど外面的な規則にこだわらなかったんです。細かな律法を守らないで食事をするようなことをしていたわけです。それでファリサイ派や律法学者たちは怒ってなんでちゃんと守らないのかということです。
イエス様の視点のようなどこにポイントがあるのか、見ている視点ということですけれども、外的な事を守るかということよりはその人の心がけというかどういう心で生きているかということ、それをやはりイエス様は問う。手が汚れているかいないかの問題ではなくて、心の中の問題です。外からのものが人を汚すのではなく、一番汚すのは人の中から出てくるものが人を汚しているということです。だから人間の心の中を見つめなさいとイエス様は言っておられます。どれだけわたしたちは外側よりも心を大事にして、自分の内面を大事にして生きていけることができるかどうかそれを問わなければならないと思います。
もちろん手を洗った方がいいですから、ちゃんと教会学校の時にでも食事の前は子供たちはちゃんと手を洗っていますから、今までいいというわけではないですけれども、過度になる必要はないと思います。
わたしが最近のCMで引っかかるのは、消臭除菌スプレーとかで、じゅうたんからカーテンから何でも消臭して、あの商品は全く無意味と個人的に思います。いかにもそれが現代生活で必要かのようにここ数年宣伝しています。
現代の感覚ですね、なるべく清潔でなるべく菌がないほうがいいという。本当は菌にも良い菌もあるから、わたしたちは菌の中で生きているので、過度に清潔にする必要はないと思います。ある程度はしなければならないと思いますけれども。でもあのスプレーをするぐらいだったら自分の心の中にスプレーした方がいいと思います。
今日のイエス様の言葉だったら、外側をきれいにするんではなくて、心の中をきれいにしろというのがイエス様の中心的なメッセージですから、もちろん外側もある程度きれいにしたらいいと思いますけれども、それ以上にわたしたちがきれいにしなければならないのは心の中ですよね。わたしたちの心の中の汚さをもうちょっとしっかりしなさいと、イエス様は言っておられるわけで、どのように自分の心を見つめて心を清めてわたしたちが歩めるかどうか、もちろん部屋の中もきれいな方がいいと思いますけれども、汚い部屋の人はすごいし、きれいにし過ぎている部屋の人もいます。わたしはきれいにしているのが好きなのでそうしていますが、それぐらいきれいにするぐらいなら心の中をわたしたちはきれいにしていなかえればならないと思います。
昔話ですけれどもある聖人のような立派な修道者がいて、お祈りや断食や模範的に励んでいて、何年も模範的な生活をしたんです。それでイエス様が喜んでその修道者に向かって、今まで忠実に頑張ってきたから、何でも一つ願いを叶えようと言いました。そうしたらその修道者はよくよく考えて、自分は何年も修道生活をやってきたんで、では自分の心の中を見せてください。どれほど心がきれいになったか見てみたいですというふうに言ったんです。そうしたらイエス様が暗い顔をされてそれだけは辞めた方がいいと言ったんですけれども、それだけ言われるとどうしても心をみせてくださいと言いました。イエス様が渋々その人の心を見せたんですけれども、それを見た途端、彼はどれ程自分の心が汚いものであるかというのを見てがっかりして彼は修道生活を辞めてしまって、その後全然違う生活をしてしまったという一つのお話があるんですけれども。
人間の心の中を清めるのが、ある意味最も難しい事だと思います。自分の心の中を見た時にどれほどの汚れが罪が、あるいは長年生きてきた中で、どれほど罪のカスみたいなものが心の中に溜まっていくかどうかです。それはまたわたしたちが認めなければならない現実かもしれない。でもその修道者はなんでそこでがっかりして、全てを辞めてしまったのか。それが実は問題だと思うんですね。
わたしたちが真面目にやっていてもいなくても、心の中には悪いものはいろいろあると思うんですけれども。大切なのはそれを認めた上で、どう回心してどう清めの道を歩んでいくかということが大事だと思うんです。
今日の第二朗読のヤコブの手紙の一番最初のところなんですけれども、「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」良いものは全て神から来るんです。自分の中から出るんじゃないということですね。良いものは全て神からの贈り物として、わたしたちに与えられていると。だからそれを大切にして与えられたみ言葉を受け入れて、そのみ言葉を生きていきなさいと書いてあるんです。
なんでその修道者はがっかりしたのか。自分の力を誇っていたんですね。真面目にやっていたかもしれないけれども、自分で頑張ったと、自分で心を清めたという自分が出てくるからだめだった。わたしたちの生き方は、もちろんある程度自分で頑張ることも必要だけれども一番大事なのは自分の自我をおいて、捕らわれをおいて、神の恵みにいかに自分を委ねるか。つまり良いものは上から神の恵みとして来る以上、わたしたちがどれだけ神様に心を開いて神の恵みの内に歩んでいけれるかどうかということだと思います。
心の中に罪のカスとか水垢みたいなものがあっても気にする必要はないかもしれません。わたしたちは神の恵みの中に生きていくというそこにいつも気持ちを合わせていくならば、わたしたちは神様の一番喜ばれる生活になると思います。
ペトロの手紙で素晴らしい箇所があるんですね。「愛は多くの罪を覆う」つまり愛があればわたしたちは罪や汚れから解放される。愛は当然神様から出てくるわけです。ペトロが自分の汚れや罪を一番悟ったのは、イエス様が十字架に架かって否んだ時ですね。あの時に自分のダメさ加減を、醜さがはっきり分かった。それでもイエス様はペトロにわたしを愛するかと復活した主が聞いてくださったわけです。
わたしたちが神の愛を生きるならば、少々の汚れを気にすることはないし、汚れを超えて、わたしたちが神の愛で赦されていやされて清められて歩むことができると思います。
わたしたちがいつも神様の愛を中心に自分とか自分の行いとか自分ができるとかできないとか、自分を中心に考えるんではなくて、神の恵みを中心にしてわたしたちが歩んでいけるように、特にこの一週間それを心がけながら歩んでいけるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 出エジプト記 34章4b-6・8-9節

 〈その日、〉モーセは朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち(た者。)」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」

第二朗読 コリントの信徒への手紙 第二 13章11-13節

 兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように十

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                      2015年 8 月 30 日(日)
                       三位一体の主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記