カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2014-11-9 神の現存とともに

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於 

ヨハネによる福音書 2章13-22節 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。十

 今日は11月9日、ラテラン教会の建堂の祝日にあたっています。このラテラン教会というのは教会の中でも最も古いローマの教会で、特別このようにお祝いしているんです。この聖堂が建堂されたそのような祝日ですけれども、朗読されるのはヨハネの2章、どちらかというと神殿が大事であるというより、本当の神殿はイエス様の体である言っています。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
わたしたちクリスチャンにとって、このお御堂は大事なところで、もちろんそういうところで商売したりするのはダメなんですけれども、わたしたち聖堂よりも、イエス様の体こそわたしたちの本当の神殿であるということです。わたしたち教会というのは建物が大事ではなくて、わたしたちの中心にいつもおられる、イエス様が大事であるということです。それをこの教会の建堂記念日に思い起こすという不思議な感じもします。
さらにこの第2朗読でコリントの教会への手紙では、「(あなたがたは) 神の建物なのです。」教会というのは建物ではないということです。教会というのはわたしたち信者の集まりとイエス様、そこにイエス様がおられるからこそ、本当の意味でそれは神殿になるということです。
逆にいえばわたしたちは建物ではなくて、わたしたち自身が、神の神殿であるかどうかということ、それを見直さなければならないし、わたしたちが神様の神殿にふさわしいものとして、歩んでいるかどうかということ、それをしっかりと意識しなければならないであろうというふうに思います。
アイルランドのシスターで、シスターブリージ・マッケナという方がおられ、シスターブリージというアメリカに住んでいる方ですけれども、彼女は有名人で、病気を癒す賜物を持っておられたんで、今でもご存命ですが、たくさんの病人を癒されて、日本にも何回も来られたんですけれども、そういう方がおられるんです。
シスターブリージのことを思い出すけれども、イエス様との親しい交わりを持っておられるのが、ものすごく印象的なんですけれども、しかもそれをイメージで割とよくみられる方で、彼女は若い時に黙想会に出ていて、黙想会中に神様からではないものから誘惑を受けて、いろいろな誘惑を感じて、気持ちがボロボロになるような、翌朝ミサに出ている時に、彼女がお祈りしていたら、こういうビジョンが出てきて、嵐が去ったあとのような、ボロボロのテントが出てきて、外も中もぐちゃぐちゃで水浸しのテントでそこに若い男の人が入っていこうとする、彼女は彼にそのテントはぼろぼろだから入らない方がいい言いました。彼はニコッと笑ってわたしはこのテントに住んでいるので。と言ってその若い男の人はテントに入っていくんですね。シスターブリージははっと気がついて、その若い男の人はイエス様だったと。そのボロボロのテントは自分の魂だと気付いたんです。
それはミサのご聖体拝領中に聖体拝領の列に並んでいて、拝領して自分の席に座った時に気付き、イエス様が彼女に語られて、そのテントがぼろぼろかぼろぼろでないかそういうことを気にするんではなくて、テントの中に住んでいる、わたしたち自身に心を向けなさいということです。
わたしたちはついついテントがぼろぼろだから縫わなければここを掃除してとか、そっちの方に気持ちが向くんですが、でも一番大事なのは、テントがボロボロか綺麗かではなく、イエス様がそこにおられるかどうか。そしてわたしたちが神殿である以上、わたしたちの心の中にいるイエス様に心を向けるかどうか、それが一番大事だということをイエス様がシスターブリージに告げられるんですね。
わたしたちも同じだと思います。わたしたち個人もそうですけれども、当然わたしたちの共同体というか、集まりがあるです。
イエス様がおられるかどうかが、最も大事なことです。そのイエス様に心を向けられるかどうか、それが最も大事な事だと思います。
このお御堂であるならば、クリーンナップの係りの方がこまめに掃除されているから、ものすごく聖堂が綺麗になっているんですけれども、綺麗だからこの聖堂は聖堂として価値があるのかどうかといったら、そんなことはないわけです。この聖堂に価値があるのは、ご聖体に安置されていて、ささげるからこそ、聖堂としての価値がある。そこに神様の現存があるから、聖堂というのは大事なわけです。わたしたちの心も、わたしたちの共同体もイエス様の現存が大事だということです。
もちろん罪を犯すよりも、罪を犯さない生活をする方が大事だし、わたしたちの共同体でも問題があるより問題が無い方がいいですけれども、わたしたちが個人でもグループでも忘れていけないのは、イエス様がそこにおられるかどうかです。それを忘れて人間的な力でそれを頑張ろうと思っても、共同体のグループを何とかしようと思っても、それはイエス様の存在を忘れているならば、虚しい努力だし、実りがないともいえるかもしれない。
むしろわたしたちは個人も共同体も、イエス様がおられて、イエスさんが何を望んでいて、何に喜んでおられるか、何に悲しんでおられるか、そしてイエス様がより住みやすい自分の魂を、あるいはイエス様がより住みやすい、わたしたちの共同体をあるいはイエス様の働きが、より現れてくる、わたしたちの関わりはなんであるか、イエス様に心を向けながら、イエス様の存在と共に現存と共に歩むなら、わたし自身があるいは共同体で神の神殿というふうに言うことはできるであろうと思います。
大切なのはイエス様が住んでおられるかどうか。イエス様がわたしたちの関わりやわたしたちの生き方に本当に染みわたるかどうかということです。
それをわたしたちは願いましょう。当然わたしたちには罪がありますから、なかなかいいものになるには難しいですけれども、わたしたちがいいとか悪いとか関係なしに、汚れているとか清められているとか関係なしに、イエス様の存在中心にできるかどうかです。ただそれだけだと思います。
今日の第1朗読はエゼキエルの預言で神殿から水が溢れている不思議なお話で、この水というのは聖霊のことだと思います。そしてこの神殿というのは建物として考えないで、わたしたちの魂、わたしたちの共同体そのものだから、神殿から聖霊の水が溢れて、全てを清めて、全てに恵みが与えるというふうにそのように読まなければ、エゼキエルの預言は全く意味がないと思います。
教会の建堂記念日も、建物のお祝いしても仕方がないんです。わたしたちの共同体やわたしたち自身が教会になっている。神殿になっているということを記念する。あるいはそれを願い求める。そのような日だと思います。
わたしたち自身、みなさんの家族にしても、さまざまな共同体の中に、本当にイエス様がいきいきと働いてくださるように、そのイエス様と共に、わたしたちがいつも歩んでいけるように、お祈りをささげようと思います十

☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆

第一朗読 エゼキエルの預言 47章1-2. 8-9.12節

〈その日、主の使いは〉 わたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」

 第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 3章9c-11.16-17節

〈皆さん、あなたがたは〉 神の建物なのです。わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです十

☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆

                       2014 年 11月 9 日(日)
                        ラテラン教会の献堂 祝日 A年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記