カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2015-09-20 仕える心は十字架とともに

英神父 ミサ説教                         聖イグナチオ教会於

マルコによる福音 9章30-37節〈そのとき、イエスと弟子たちは〉ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」十

 今日の福音書はマルコの9章ですが、イエス様が受難予告といって、自分が十字架に架かって、亡くなるということを、ここが二回目にあたるわけですが、それを弟子たちに語られたところです。でも弟子たちはこの言葉の意味が分からなかった。それは恐かったからであると書いてあります。そしてそのイエス様が十字架に向かうという受難予告に合わせるかのようにしてこのエピソードが語られている。
どういうエピソードかというと、途中で何を議論していたのかとイエス様が尋ねるです。そうしたらまた弟子たちは黙っていた。なぜかというと、弟子たちはたびたび途中で誰が一番偉いかを議論し合っていたというんです。この現代社会でなるべく上に行かなければならないというんですか、子供の受験から就職から、なるべく上に上昇しなければならないという、そういうのがわたしたちの社会の風潮であると言えるかもしれません。少しでもいい大学、企業にいこうとしたり、そんなに上を考えていなくても、せめて人並みに、それほど恥ずかしくないレベルにみたいな感じで、持っているわたしたち人間の根本的な気持ちを表しているのではないかと、それなりに人から評価される、恥ずかしくない暮らしぶりとか学歴とか、わたしたちの社会の中のいわば圧迫のような、そういうものを語っているのかもしれない。
でもイエス様はそれに対して全く違う価値観を、生き方をわたしたちに示している。どう言ったかというと「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」ということをおっしゃるわけです。「すべての人の後になり」つまり先へ先へ、上へ上へではなく、後になって、下になって、仕えるものになれというふうにわたしたちに呼びかけています。
これはわたしたちの文化に真向から対立している生き方ではないかと感じます。仕えるものになるという、わたしたちクリスチャン一人一人に問われている生き方であるということです。
たとえばこの大きな教会で奉仕活動グループというのは多数あって、約70ぐらい以上のグループがあって、そこで奉仕されている方々というのは、心からの善意で奉仕されていて、どのグループの方をみても、頭が下がるというか、わたし自身、感謝の気持ちがわくようなものばかりですけれども、その中でも、とりわけわたしが一番なぐさめられるのは、掃除のグループなんです。クリーンナップグループといって、この大きな教会ですから、かなりたくさんのところを頻繁に掃除しないと、きれいに保つことが不可能なんですが、この聖堂にしてもトイレにしても、信徒会館にしても、そのクリーンナップの方々が、謙遜に、定期的に、掃除されている、それが仕える奉仕する、原点のようなものに思うんです。このクリーンナップの人々の表だって目立つようなことはないんですけれども、隠れた形で、これだけ大きいですからかなりの大人数で掃除をしているんです。そういう方々の姿を見ると、仕えるということが何かあるんではないかと思います。もちろんご自分の家とか掃除されているとは思うんですけれども。
掃除ということで、思い出したのは、わたしは神戸のイエズス会の学校出身で、ミッションスクール出身ですけれども、中高一貫校で勉強して卒業してイエズス会の神父様がたくさんいた学校ですけれども、わたしが入った時にはすでに変わっていたんですけれども、初代校長というのが変わっている方で、名前は六甲高校、六甲中学ですけれども、はっきりされている方で、彼の遺訓がいくつか残っていたんですけれども、一つは六甲生というのは、掃除と部活がきちんとできたら六甲生であると、つまり掃除をきっちりできる人が本当の六甲生だというんです。勉強の事は一言もなしで、掃除と部活、それが一番大事なこととよく言っておられました。
その当時だけですけれどもその校長の方針は、それはまか変わっていたんですけれども、東大受験禁止だったんです。東大へいったらいけませんという。なぜなら東大は日本のトップの大学で、そういう大学はよくないという。初代校長の時は受験禁止だったんです。どうしても行きたい人は、校長に説明して、理由を説明して、受験を許可してもらわないといけなかったんです。
今は東大に何人合格できたかで学校の評価がありましたが、どこの学校でも特進クラスを作って何としてもランクを上げさせるためにしていたのに、その東大受験禁止はその校長の方針でした。
一番先に行きたい、上に行きたい人はダメだということで、学校としては全く認めませんということですが、今は当然違いますが。
わたしたちの中には先になりたいとか、評価されたいとかいう思いがある。そうではなくて本当に仕える心で、わたしたちが歩んでいけるかどうか、それはわたしたち一人一人が問いかける事だと思います。
昔から知り合いのシスターがいて、修道女で能力があっていろんな事ができる方だったんですけれども、そのシスターが苦しんだ仕事は何かというと、管区長という仕事をさせられたんです。国際修道会で管区長が一番のトップで偉いんですが、彼女がその仕事を受けた時だけが苦しんだ。なぜかといったら人々に奉仕したいから、人と関わって人の世話をしたい。管区長というのは完全管理職ですから、引き受けたくなくてたまらなかったそうです。その話を聞いた時もその話を思い出したんです。いちばんトップですから、人から評価され目立つ仕事でしょうけれど、人の上に立つということは目立ちますからそういうことをやりたい人もいる。彼女は本当にやりたい事ができないので、彼女にとってはその仕事をすることが人々に仕える、謙遜な奉仕だったといえると思います。
謙遜な奉仕の仕える心というのは仕事によらないです。与えられた能力のある人は、能力を出さなければならないし、遣わされているのは一人一人違いますから、全ての人が掃除をすればいいわけではなくて、その人に与えられている奉仕の場所、そこで仕えることができるかどうか、わたしたち一人一人にに突きつけられているのではないか思います。
だからこの話は十字架の受難予告と一緒なんです。謙遜な奉仕というのはどこか十字架が入ってくる。自分の痛みや望みや痛みを、ささげなければならないし、自分の望みを放棄しなければならない。謙遜に頭を下げて、自分の捕らわれとか、自分のこうしたいという思いをおいてやらなければならないことが、多いように思います。全てがそうだということではないとは思いますけれども。本当の謙遜さと自分を捨てる、そして十字架を担う覚悟があってこそ、イエス様の望む奉仕はできていくのではないかと思います。わたしたちが本当の意味でイエス様の仕える心で日々を過ごしていけるように、特にこの一週間そのような仕える心で人一人与えられている場と、与えられている使命や仕事や役割は違うと思いますが、それを謙遜な心で仕える心が果たしていけるようにお祈りしたいと思います十

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第一朗読 知恵の書 2章12・17-20節

〈神に逆らう者は言う。〉
「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
 我々のすることに反対し、
 律法に背くといって我々をとがめ
 教訓に反するといって非難するのだから。
 彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
 生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
 本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
 敵の手から救い出されるはずだ。
 暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
 その寛容ぶりを知るために、
 悪への忍耐ぶりを試みるために。
 彼を不名誉な死に追いやろう。
 彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」

第二朗読 ヤコブの手紙 3章16節-4章3節

〈愛する皆さん、〉ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあ〈ります。〉上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです十

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                      2015 年 9 月 20 日(日)
                       年間 第 25 主日 B年
                       カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記