カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-10-29 一致へ向かってー宗教改革500年記念に寄せて

英神父 ミサ説教                          聖イグナチオ教会於

マタイによる福音書 22章34-40節 (そのとき、)ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」十

 今日の福音書は有名な愛の掟ですね。聖書全体の中で神様を愛するのが大事な掟。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」二番目は「隣人を自分のように愛しなさい」ということですね。わたしたちクリスチャンにとって、愛するということが大事な掟であるということは確かだと思います。ただこの愛するという言葉を使った方がいいのかどうか色々議論があって、大切にするとか大事にするほうを日本語に置き換えた方がいいのではないかという意見もあります。
愛するとは何をどのように愛するのか。それは難しいところがあると思います。わたしたちは愛すると言いながら愛せない現実もあります。イエス様がおっしゃった愛は、あちらを愛しこちらを愛さないものではないと思います。わたしたちが愛するという言葉を使う時に、あるいは愛するという生き方をする時に、わたしたちの狭さからくるのでしょうが何かを愛し、何かを嫌ったり敵対する現実を認めなければならない。その最も大きな一つが、イエス様の教会が分裂しているということです。五百年前にカトリックとプロテスタントが分裂してしまった。両方とも愛するという掟を実践しようとしながら、一つの教会ではなくなっているという現実をわたしたちは愛することができない存在であるということを、認めざるを得ない一つの現実であるということです。
ルターによる宗教改革五百周年にあたって、わたし自身が一番感動するのは、この分裂からいかに交わり一致に向かって歩もうとしているのか。ルーテル教会とカトリック教会が大いなる対話を積み重ねながら。百年前だったら考えられないような状況が生まれている。今から百年前の宗教改革四百年記念、1917年の時にルーテル教会はカトリックを批判する宣伝を出して、カトリック教会はルターは異端だとお互いを批判していました。宗教改革をプロテスタントはお祝いして、カトリックはそれを批判するような、非常に心が痛むお祝いだったんです。それから百年たって、2017年は全く変わりました。ルーテル教会とカトリック教会の神学者同士が、何年も渡る真摯な対話を積み重ねて、そしていったいどこが一致できるのかどこか違うのかを、明確にする作業をずっと積み重ねてきて、結局はプロテスタントが強調する義認において、ルーテル教会とカトリック教会において、根本的な相違はないと共同声明で結論づけられています。小さなところはもちろん違いはありますけれども。更にミサの聖祭、キリストの御体、御血としていただく。これについてもルーテル教会とカトリック教会は、本質的なところでは一致しているということが確認されています。
このミサをお祝いする中で、わたし自身が心が痛む一つは、プロテスタントの方が聖体拝領出来ないという現実が今もあるわけです。それはわたしにとっていつも感じることなんですけれども。近い将来、ルーテル教会とカトリック教会は、相互聖体拝領が可能になるところまできていると思います。プロテスタントの方が全員とはいかないでしょうけれども。でも五百年かけて分裂してきたものを今、少しでも一致させようとする動きが真剣に対話を積み重ねる中で、いきてきているということです。そして明後日の10月31日、ちょうど五百年前にルターがヴィッテンベルグのお城の教会に95カ条の提題を門扉に貼りつけたというのは世界史の教科書には必ず載っている。今年の10月31日にはヴィッテンベルグのお城の教会で、ルーテル教会とカトリック教会が合同で礼拝をささげることになった。画期的な五百周年だと思いますね。わたしたちは分裂させる力が強いですけれども、一致させようとするイエス様の愛する心は、わたしたちの中にも脈々とあるということですね。もちろんプロテスタントとカトリックの本当の一致については、あと何百年かかるかもしれないけれども。でもそちらの方向性に向かって、わたしたちは歩んでいるんですね。プロテスタントとカトリックがもう一度共にしようとする動きが明らかにある。それはわたしたちにとって、大きな希望であるし、大きな慰めだと思います。
大きな教会もそうでしょうが、わたしたち一人一人もそうでしょう。愛すると言いながら、愛そうとしても愛せない現実がわたしたちの中にある。その時にわたしたちに何ができるのか。この大きなルーテル教会とカトリック教会の対話のあり方ですね。時間をかけながら誠実に対話をして互いが理解する。どこが一致できるのか、どこが違っているのか。違いを認めながら、でも一致できるところは一致するという姿勢。そして間違っていたことをお互い認めあって赦しを願う。悔い改めと赦しによる和解。それはわたしたち一人一人が全てに必要なことだと思います。愛するということは簡単なようで簡単でないことが多々ありますから。そこに誠実な態度というか努力、時間がかかっても、それをしていくようにわたしたちは呼ばれていると思います。
小さなことでいさかいを起こしてしまったり、わたしたちは人間関係で小さなことが色々ありますけれども、そして分裂が多ければ多いほど修復の時間がかかるのも確かだと思います。でも、わたしたちが寛大な心と誠実さをもって対話をするならば、関わりを続けていくならば、互いの違いを認めつつ、一致できるところをしっかり探しつつ、悔い改めの心を持っていくならば、そのようなプロセスそのものが、神様との関係もそうですが、隣人を愛していくことに繋がると思います。
この世界には大いなる分断や亀裂、憎しみ悲しみの愛にかなっていないことが多々あることは認めなければならない。でもわたしたちはイエス様の生き方を心に刻んで、少しづつでも対話なり赦し合いなり認め合うことをしていくならば、わたしたちはイエス様の愛するということに、従っていくことは出来ると思います。
このルターによる宗教改革五百周年記念は、分裂のお祝いではない。一致に向けた互いに理解し、互いに分ち合っていく、そのようなしるしになっています。わたしたち一人一人も本当の意味で困難な中でも、愛するということを一歩一歩、歩んでいけるようにこのミサでお祈りしましょう。難しいことは時間がかかると思いますけれども、でもわたしたちが愛の心で神様により頼んでいくならば、主はわたしたちに力をくださると思います。この二つの掟をわたしたちが謙遜に誠実に勇気を持って果たしていけるように、心を合わせてお祈りをささげましょう十
 

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第一朗読  出エジプト記 22章20-26節
 (主は言われる。)寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。

第二朗読テサロニケの信徒への手紙 第一 1章5c-10節
 (皆さん、)わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。十

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                       2017 年 10 月 29 日(日)18時ミサ
                        年間 第30主日〈緑〉A年
                        カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記