カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆イエズス会 英隆一朗司祭の福音朗読 ミサ説教 講話などの公式ブログです☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆。・:*:・゚☆

2017-09-10 心を一つにして求める

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会於

 

     youtu.be

マタイによる福音書 18章15-20節(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。) 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」十

 今日の福音書マタイの18章は全体的に大切なところで、教会の司牧的なものはどういうものかをまとめていると言われています。別の言葉でいうと教会の共同体はどのようなものとして歩んだらいいかということを語っていて、非常に重要な箇所なんですね。ここの箇所で一番心惹かれるのは「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」というふうにおっしゃっています。わたしたち一人で何かを願うよりも二人であるいは三人で、あるいはグループで何かを願うならばそれは神様にかなえられることはあるかもしれない。ここで一つ大切なことは「心を一つにして求めるなら」と書いてあるんですね。心を一つにして二人が何か一つのことを願い求めるということですね。案外難しいのは心を一つにするということはそれほど簡単ではないことが多い。二人が別々の気持ちで別々のことを願っているならば、確かにそれほど実りが出来ないことがあるかもしれない。心を一つにするということが大切な事として語られているような気もします。この二人というのは色々な組み合わせが考えられます。たとえば夫婦でも二人が心を一つにしてということが言えるかもしれない。夫婦が心を一つにして何かを願い求めてそれをしていくならばそれは大きな力になるだろうと思います。いろんな方を見ていて心を一つにする難しさと心を一つにする大きな恵みみたいなものも感じることは多々あります。司祭としていろんなカップルに関わることも多いですが、ではどういう時に夫婦の心が一つになることが多いのかというと、危機的な事が起きたりした時が多いかもしれない。そういう例は多々ありますけれども。突然自分の子供が大きな難しい病気などになると、多くの夫婦はそれによって心が一つになって自分の子供の癒しを願う、祈りをささげる。それは願い事だけではないですね。最近あるお父さんが仕事を変えてまで、つまり今まであまり家庭を省みていなかったという反省から生き方さえ変えて、そして子供のために家族との関わり方も変えて、必死さのようなものが現れたかもしれない。二人で心を合わせて願わなければならないことが本当にあるならば、その時にそのような関わりが生まれてくる。その子供が大きな病気だったらすぐには癒されないし、病気によっては難しいこともありますけれども、そういう時に夫婦が心を一つにするくらいなことがあって、本当に必死で願う時にそこに神様の働きがあるとすごく思います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ただ物理的に集まるということではないですね。二人または三人が心を込めて、心を砕いてやらなければならない時にその時に主が来てくださる。その時に本当に祈りをささげるときにこういうことがあるのではないかと思います。自分自身の父親は亡くなり母親は施設にいますけれども、自分の父と母を見ていても同じことを思いますね。母親がまだ元気だった時に、何かの時にわたしに言ったのが、夫婦として一番幸せだったのは一番貧乏な時だった。ということをある時しみじみと語ってくれた事がありました。わたしが小学校から中学校にかけて父親の仕事が失敗したり会社が倒産したり実は貧しい生活をして、ぎりぎりで家族みんなが生きなければならない時代があったんです。でも確かに今から思うにその時が一番父親と母親が必死で協力しながら祈りをささげながら生きていた。それが一番幸せだったと母親が言っていたのがものすごく分かる気がします。ものすごく貧しかったんですけれども、わたしは中高大学を私立学校にいったんですけれども。その危機になる前は父母の夫婦喧嘩が激しくて、わたしが幼い頃によくやっていましたけれども、貧しくなったら喧嘩どころではないから、二人で必死で生活費を稼がなくてはならない。でもその時は本当に心が一致していました。わたしが大学生の頃にやっと生活が安定してきたんですけれども、それからなんとなく父母の関係がもう一つ上手くいかないようなところがだんだん出てきて、それで貧しい時が一番幸せだったと母がわたしに言ったんです。だからわたしたちが心を一つにする、夫婦だけではないですけれども、でも心を一つにして祈っていくということがどれほど大きな力になるかということが明らかだろうと思います。みなさんでも心を一つにすることがいかに難しいかということをわたしたちは受けとめなければならない。だから今日の福音書の前半は何が書いてあるかというと、心が一致できない時にはどうしたらいいのか。何かトラブルが共同体の中で起きた時にどうすればいいかということをイエス様はわたしたちにおっしゃっているわけです。ここで書いてあることを簡単に言うと、行動としては対話する、しかも徹底的に一対一で話し合えと。粘り強い対話が何かを変えていく可能性があると書いてあるんですね。でもそれで全て解決するとは書いていない。それが上手くいかないときには第三者を入れて徹底的に話さなければならない。それも出来ない時があったら、共同体の一致はいかに難しいかという現実があるから、ここまで徹底的に段階を経てどういうふうに対応を進めていかなければならないかと、こと細かに書いてあるわけですね。このような事をしていくときこそ難しいけれど心を一致し、対話することを諦めないで関わりあっていく。その中で何かが生まれてくる可能性があるとイエス様はわたしたちに告げていると思います。日本人はこれが一番苦手なことかもしれない。蔭口はいっぱい言うかもしれないけれども本人にはなかなか直に話せないことはあるかもしれない。あるいは相手の言うことを聞くことが出来ないかもしれない。わたしの父母だけでなく関係が難しい夫婦もよくお会いしますけれども、ある夫婦は全く対話が出来ない。ご主人が命令するばかりで奥さんが奴隷状態のような感じで泣いてばかり、御主人が変わった性格で、わたしは両方知っていたんですけれども、結局このようなプロセスで自分の意見をちゃんと言って、関わりをするようにした。だいぶかかったけれども変わりました。逃げないで対話を積み重ねていくならば。今はもう奥さんは晴れやかな顔をして、あんなに暗い結婚生活が勇気と寛大な心を持って対話を続けることによって、その人のように劇的に変わることがあると思います。劇的に変わらなくても少しでも変わっていくならばわたしたちの心に希望の光が、あるいは慰めが与えられてくることも確かだろうと思います。わたしたちが心の一致を目指して神様に恵みを願っていくならば、わたしたちがそこから歩める道があると思います。全てが魔法のように上手くいくとは書いていないですけれども、現実だと思います。でもわたしたちが諦めずに主に願いながら、それは夫婦の事だけではないですけれども、共同体の交わりでも職場でも教会でも人が集まる中で、わたしたちが心を一つにして神様に願えるようにそこに心を配っていくならば、そこに神様がいてくださってわたしたちに力を与えてくださると思います。そのような恵みを願いたいと思います。本当は国と国とも同じだと思います。粘り強い対話を積み重ねるしかないと思います。人間と人間、グループとグループの間も全く同じです。わたしたちが対話を積み重ねながら、心の一致と神様の恵みの光、願っていくことがかなえられていく。それを心から願いながらこのミサをささげたいと思います十

☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆

第一朗読  エゼキエル書 33章7-9節
 (主の言葉がわたしに臨んだ。)「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」


第二朗読  ローマの信徒への手紙 13章8-10節
 (皆さん、)互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。十

☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆。・:☆:・゚☆

 

 

                       2017 年 9 月 10 日(日)
                        年間 第23主日〈緑〉A年
                        カトリック麹町教会 主聖堂於
                        イエズス会 英 隆一朗 助任司祭ミサ説教記