カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2017-11-23 必要なことはただ一つだけ

英神父 公演  日本カトリック神学院 東京キャンパス 聖堂於

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ルカによる福音10章25-37節 :善きサマリア人 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」十

10章38-42節:マルタとマリア 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」十

11章1-13節:祈るときには イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 あなたがの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」十

 今日のテーマ「必要なことは、ただ一つだけ」で聖書を中心にお話したいと思います。ルカによる福音書10章38節から42節を読みます。「マルタとマリア」:「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』 主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」イエス様がマルタにおっしゃった言葉の中に、今日のテーマ「必要な事は、だた一つだけ」というわけですが、この「一つだけ」がなんであるかを、みなさんと一緒に考えたいと思います。あるいはみなさんにとって「必要な事は、ただ一つだけ」ということがみなさんにとって何なのかという事ですね。このマルタとマリアの箇所ですが、あんまり評判が良くない箇所だと思うんです。怠けもののマリアの方が褒められていて、働きもののマルタの方があまり評価されていないわけですね。教会でも真面目にマルタ役をやられている方も多いかもしれない。ついわたしたちもマルタの方に自分の気持ちをおいて、イエス様がマルタを評価せずにマリアを評価したということでどう受けとめたらいいのかという事ですね。昔、女子パウロ会の雑誌の記事にマルタを褒めた記事を出したんですね。それが一番反響が良くて「マルタを褒めてくれてありがとう」など(笑)。みなさんがしっくりこないかもしれない箇所をよく考えてみたいと思います。伝統的にはマルタとマリアは活動の象徴ですね。マリアは祈りの象徴で観想生活と活動生活の両方をえがいていると思います。イエス様はお祈りの観想生活を大事にされているのではないかというのが、伝統的な解釈ではあります。大事なのはルカの福音書というのは二つの観点から読まなければならない。一つはマルタとマリアのように出てくる対比で書くのがルカの好みなんですね。他には放蕩息子とお兄さんの立場とか違う立場の人を取り上げて、わたしたちに取り上げているというのがルカの福音書の特徴なんですね。だから二つの立場というのは両方自分の中にあることだと考えた方がいいし、二つの立場を対比させることによってルカの福音書ではイエス様がわたしたちに問いかけているというのが一つなんですね。もう一つポイントはルカの福音書ではコンテキスト、前後の文章をくみとるのが大事なんです。ルカの福音書では9章の終りなんですけれども、エルサレムに向かうたった一回限りの旅路としてえがいているんですけれども、他の福音書ではイエス様はイスラエルを行き来なさっているんですが、ルカは一回限りの旅で帰っているんです。その書き方は一つの話を書いたらそれに付随するというか、それを深めたり広げたりあるいはそれを別の角度からいうために別の角度から書くんです。次の話を書いたらさらに深めたり別の角度から見たりするために次のお話を書いているということでつなげて書いてあるんです。それでマルタとマリアの箇所の前後まで繋げて見た方がいいんです。日曜日の朗読の箇所ではそこしか読みませんが、少なくともルカの福音書を読むときは、前半どういうお話が書いてあるのかということをみると、内容が深まるような違うように見えてくるんですね。それで直前に何の話があるといったら善きサマリア人の話が書いてあるんです。マルタとマリアの前に善きサマリア人を読まないとピンとこないところがある。善きサマリア人はみなさんがよく知っておられる話ですが、ルカによる福音書10章25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』 イエスが、『律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか』と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」そこから彼はもっと論争しようとしてルカ10章29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った。イエスはお答えになった。『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」なぜ祭司やレビ人は見て見ぬふりをしようとしたのか。いろんな節がありますけれども、一つは死んでいる人というのはユダヤ教で汚れなんです。だから触ると汚れになって神殿に行ってお務めができないんですね。だから律法的に考えたらその人を助けられないから立ち去ってしまったと言われています。その後に善きサマリア人が通って憐れに思ってその人を介抱して宿屋に連れていって、デナリオン銀貨まで出してこの宿屋の主人に彼を委ねるわけですね。この善きサマリア人のように生きていくというふうにイエス様がわたしたちにおっしゃっているわけです。ですのでマルタとマリアと同じように大事なのは善きサマリア人のお話だと思います。わたしたちも周りで困っている人がいたら善きサマリア人のように寛大な心を持って助けなければならないということだと思います。こういうお話があってマルタとマリアのお話が繋がるとしたら注意しなければならないと思います。それは何かといったら、ボランティアをやったり教会の奉仕をやっている方が陥りがちですけれども、自分はこれほどやって何であの人はやらないかと、批判する傲慢な気持ちが湧いてくるというのはみなさんの中にもあるかもしれない。マルタとマリアの話はそういう危険性を問うていると思います。わたしたちが一生懸命やればやるほどやっていない人のことを批判したくなったり、その人を認めない心の動きとかがあるんではないかと思います。それを突き詰めて考えたらイエス様がおっしゃっているファリサイ派や律法学者の生き方に繋がっていくところがあるんですね。律法学者もファリサイ派も真面目に頑張っていたのだから、真面目に法律を守っていたのにイエス様が罪人とか徴税人とか怠け者みたいな人たちを優遇するから、律法学者やファリサイ派の人が怒ってみたりするわけですね。だからこの話はマルタとマリアの話なんですけど、イエス様と律法学者の対立みたいな、いつも出てくるお話みたいですけれども、いつもわたしたちに問われているポイントになってしまうのではないかと思います。先ほど言った放蕩息子とお兄さんのお話も同じテーマになるわけです。この後の15章は放蕩息子のお兄さんは真面目にやっていたわけですね。教会でも真面目にやっていると放蕩息子のお兄さんの気持ちに、時にはなってしまうことがわたしたちにはあるわけですね。そういうことを考えるとイエス様がおっしゃっている「必要な事は、ただ一つだけ」の必要な事は何であるかと問いかけてみなければならない。わたしたちの信仰生活の中でどういうことを大切にしてわたしたちは生きているのかということですね。この善きサマリア人のたとえ話の中で最も大切な言葉は何なのか。講座とかでお聞きになった方もおられるのでしょうが33節ですね。「 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い」です。去年カトリック教会はパパ様の意向で「慈しみの特別聖年」ということをお祝いしていましたけれども、去年の慈しみという言葉は聖書の中では「憐れに思い」と書いてありますが、憐れみと訳すのか、慈しみと訳すのかという議論があって、日本の司教団は慈しみという言葉を選んだんですけれども、聖書は「憐れに思い」なんですね。この言葉は聖書の中でキーワードです。ラテン語でこの言葉はミゼリコルディアというんです。ミゼリとは惨めなとか哀れなという意味なんです。コルディアは心なんですね。惨めな心という意味なんですけれども、それは自分の心が惨めというより、いかに苦しんでいる人に対して自分の心が痛む、共感する心を表わしている。それを慈しみとも憐れみとも訳せる言葉になるわけですけれども、これはギリシャ語だったら有名なスプラングニゾマイという「はらわたから痛む」という意味なんです。強い強い言葉を表わしているんですね。だから慈しみというと少し弱い感じがする。憐れみというのは偏りがあって難しい気がする。東京教区の佐久間神父様はこれを「はらわたする」と訳されましたが、これは受動形なので本当は「はらわたされる」と訳された方がいいんですが。(笑)とにかくお腹の中から痛むという言葉なんですけれども。これは何語で言ってもほとんど同じなんです。イエス様はこれをギリシャ語でお話されていないから、ヘブライ語でこの言葉はラハイームというんです。これは女性の子宮という意味です。ギリシャ語で言ってもヘブライ語で言っても、これは相手の深い痛みを自らの痛みにするという言葉でキーワードなんです。これこそが神様の心だったんです。この善きサマリア人というのは、イエス様こそ善きサマリア人だと、古代からの解釈なんですけれども。神様がまず慈しみと憐れみの心を持っていらっしゃるという。そしてわたしたち一人一人に対してわたしたちの罪とか痛みとか苦しみをイエス様が受けとめてくださっていると。神様そのものがそのような心で受け取ってくださっているということが、この善きサマリア人の前提になるわけですね。わたしたちクリスチャンにとって何が大事かと言ったら、神様の慈しみと憐れみの心をよく分かって、それを生きていくというのが結局わたしたちにとって一番大切な事であると言えるのではないかと思います。マルタの問題は何だったのか。マルタは何もしないマリアに怒ったんですけれども、マルタの気持ちの最大の問題は何かと言ったら、イエス様を通して示されている神の慈しみと憐れみの心が無かったことだと思います。マリアはイエス様の話を聞いていて、イエス様を通して神の慈しみを憐れみをまさしく受け取っていた時だったんですね。すると「必要な事は、ただ一つだけ」ではマリアの立場でお祈りするのが大事だと言っているわけではなくて、必要なただ一つの事は、神の憐れみの心そのものです。それだけがわたしたちにとってただ一つ必要なことだと思います。それ以外はわたしたちにとってどっちでもいい事です。ここには様々な方がおられますがみんなに共通する必要な事は何かと言ったら、ただ神の憐れみを生きていく。神の慈しみの心を自分の心にしてそれを生きていく事だけになると思います。ただ一つ必要な事といえば、それをどのように生きるかは人によって違ってくるわけです。わたしは三年半前から小教区で働いていて、教会には様々な方がおられます。どこに共通性があり必要かと言ったら憐れみの心以外はありえない。それをわたしたちは分ち合っているだけだと思います。それに合わせて好きな人はお祈りを沢山するし、活動が好きな人は活動するでしょうし。わたしが何のために神父になって神父として生きているのか。神父様も色々お仕事をなさっていますけれども。でも神父の最大の役割は何かと言ったら、神の慈しみと憐れみを分ち合うために司祭職に呼ばれているということに尽きると思います。みんなに必要で、ただ一つ必要で、ただ一つ行っているのは、神の憐れみと慈しみを生きていく。これだけですね。どれだけできるかというだけになると思います。今日は何について話せばいいのか、係りの人に聞いたら、召命、召し出しについて話してくれと言われたんです。神父様への召し出しもそうだけれども、人それぞれ召し出しが違う。結婚に修道者に社会人にみんな違うけれども、わたしたちの中から神の憐れみの慈しみの心がなければわたしたちの存在意義は無いと思います。信者になっている意味はゼロですね。いくら教会で働いていてバリバリやっていたとしても、そこにわたしたちはいつも立ち返るようにイエス様がわたしたちに呼びかけているんですね。イエス様はおっしゃる。「マリアは良い方をえらんだ」それは確かなんです。憐れみの心にもとづいてみなさん一人一人がより良いものを選ばなければならないんです。その良いものは一人一人違うわけですから。ある人にとって良いものはマリアのように祈りを深めることでしょうし、ある人にとってマルタのように、このように活動をバリバリするということでしょう。人によってより良いものは違うでしょうし、同じだったら面白みがないわけで。これでマリアがどういう人かすぐ分かります。この人は炊事洗濯家事全般、苦手だったんですね。(笑)主婦の方みんなが料理が上手とはありえないでしょう。完璧に出来る人もいるでしょうがマリアは下手だったんですよ。そういうのが苦手だったから無意識的に逃げてイエス様の前に座っていたでしょうし、マルタは主婦の鑑だったでしょう。弟子たち大勢だったのでマルタのような人でなければもてなせない。マルタはマルタの役割があるし、マリアはマリアの役割があって、ちゃんと良い方を選んでいるわけですよ。二人に共通しているのはイエス様を通して示される、神の慈しみと憐れみの心を生きているから、喧嘩する必要性がなくてあ互いがお互いのことを助け合えばそれで十分であるということですね。これがわたしたちにとってただ一つ必要な事はそれしかないですね。それを生きていく。去年の慈しみの特別聖年は本当に良かったと思います。ただ一つ必要な事はわたしたちが立ちかえるチャンスだったんです。根本的に立ちかえるために、パパ様が特別聖年を定めて、それにわたしたちが立ちかえるようにだったんです。そこからわたしたちはより良いものを選ぶように、よりよい生き方をするように言われているわけですね。みなさんそれぞれが神の慈しみと憐れみをどう生きていくのか。一人一人いつもいつも、より良いものを選ばなければならないですよ。イエズス会の中でいえば、聖人や福者はいっぱいいるんです。その方の経歴の本を読んでいて思うのは殉教した方もいるけど、ブラザーで修道院の受付を生涯されて、来る人をみなイエス様マリア様のように応対した方が聖人になられた。神学生でも修道生活3年しかいなくて、亡くなったのに聖人になられた方がいる。わたしたちは何をするか何をしていないか考えがちですけれども、それは2番目で、まずわたしたちは神の慈しみと憐れみをどう感じて受けとって、どう日々の生活の中で生きているかということ。それを何とか問い直す以外することはないのではないか。ただ一つ必要なことを見失ってしまったら全く意味が無くなって、すぐにファリサイ派や律法学者になってしまって、ただ概念的にやってるだけで、やっていない人を非難するだけの生き方についなってしまう。わたしたちは絶えず神様の憐れみの心に立ち戻るというか、それを生きていくということを大切に出来たらいいのではないかと思います。ここの箇所は、大船渡の山浦先生がケセン語で訳した聖書は、彼の訳はこうなんですね「マルタ、マルタ、そなたはあれもこれも心を砕いて随分とイライラしているが、これだけは是非しなければと思い定めることというのは誰でもたった一つしかない。これだけは是非しなければならないと思い定める事は誰でもたった一つしかない。マリア、マリアはこれがいいと思うものをあえて選んだ」と書いてあります。釜ヶ崎に住んでおられるフランシスコ会の本田神父様の訳はこうです。「マルタ、マルタ。あなたはあれこれ気づかい、心配してくれている。必要な事は人それぞれだよ。」(笑)「マリアは自分にいい方を選んだのだ。」少し意訳でちょっとと思うけれど、ただ一つだけだと言った方がシンプルであったりするんです。それは同じなんです。選び方はそれぞれ、生き方はそれぞれだから、わたしたちの豊かさとか様々なお恵みに繋がっていくということです。このことがあって11章の1節から祈る時には、ということで今度は祈りのお話になるんですね。このマリアの祈りの立場から神の慈しみと憐れみを生きていくということが今度は祈りの話につながる。善きサマリア人はどちらかというと活動ですよね。隣人愛をどう実践するかということですけれども、もう一つ大切なのは祈りですね。そこで11章の1節から祈る時はということで祈りの話になるわけです。「弟子の一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」当時の有名なラビとか預言者は自分の祈りを作って、それを弟子たちに教える習慣があったみたいなんですね。それで2節から主の祈りの簡単なものをここではのせているわけです。わたしたちが唱えているのはマタイによる福音書なので、ルカは簡略化していますがこの主の祈りの前提にあるのは神の慈しみですね。神の慈しみがあるからこの主の祈りの一つ一つに意味があると思います。「御名が崇められますように。御国が来ますように。」神の慈しみがあるから、主の祈りは一つ一つの言葉に意味があると思います。御名が崇められるように。御国が来るように。神様の慈しみがあるからそれが広がるように。そしてわたしたちの必要な糧を毎日与えてください。神の慈しみと憐れみがあるから主が与えてくださることを信頼して、このようにわたしたちは毎日の糧を願うことができる。そして4節、罪の赦しですけれども、マルタの節が響いていると思いますけれども人を赦すこと。これもマルタの生き方のポイントですね。怠けているマリアを認められるかどうか。あるいは罪の赦しに関わることですけれども、それも自分の罪を赦してくださいと、そしてわたしたちも自分に負い目のある人をみな赦しますからと。神の慈しみと憐れみの心の中心はやっぱり赦しですね。わたしたちが罪を赦し傷を癒してくださるということですから。そして誘惑に合わせないようにと願うわけですね。必要な事は何でも求めなさいというお話に繋がってくるんです。でも問題は何を願い求めるのかということを考えなければならない。マルタのお願いだったら怖い。手伝ってくれるようにおっしゃってくださいと、それをイエスに願っているのだから。これも下手したら呪いになってしまうんですね。裁いてくださいとか、あの人働いていないからとか。マルタの心でお祈りしたらちょっと恐ろしい。だからわたしたちがお願いする時も大切なポイントは、神の憐れみの心に立ち返ったところからお祈りしないと、自分勝手に願っていたらこれこそ大変なことになってしまうわけですね。まず神様の慈しみと憐れみの心に自分の心を合わせたところから、お願いのお祈りが始まるというわけですね。旅行中に食べるものが無いので隣りの人にパンを3つ貸してください。この8節ですね。「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」でもわたしたちにとって神様は友だちどころではなくて、父なる神様、憐れみの心があるのでわたしたちは頼むことができる。11節「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。」これが神様の憐れみと慈しみの心に近いと思います。自分のことよりも我が子のことを大切にしようというのは、みなさんの中にも普通は共通しておありではないかと思います。わたしたちは慈しみと憐れみの心を子供が親に信頼するような形で願うとそれは主がかなえてくださるということですから、わたしたちが神の慈しみと憐れみの心を頂いた上で何を願って生きていくのかということを合わせて、より良いものを選ぶときに自分の本当の心からの望みと願いは何なのかという事を問いかけてみられたらいいと思います。みなさんの生活の中で心から願いたいこと。これだけはかなえてもらいたいと、神様に頼みたいことは一体何なのか。それを願いなさいと言っているわけですから。わたしたちが本当の願いをもっと願えるように、主はわたしたちに期待されているように思います。何も願わないよりはわたしたちは神様の慈しみの心に信頼して自分にとって必要な望みや願いを願っていくというか。泊まっている友だちのために助けたいから隣りの人に頼んでいるわけですよ。本当の願いとか本当の望み、心の底から主に願いたいというのは、自分の心にある周りの心で繋がることしか心の底から願えないと思います。ただ単に自分のことだけではなしに。それを本当に主がそれをかなえてくださるということですね。最後に面白いのですが13節「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」最後にわたしたちが求めるのは聖霊ということになるんですね。この中で聖霊に願ったことのない人は聖霊に願ったほうがいいですね。つまりこれが一番の贈り物だというふうにイエス様が約束してくださっているのだから、わたしたちはもっと聖霊を願わなければならない。もちろん病気が治りますようにとか、この人を助けてくださいとかということも願ってもいいですけれども、最も願うべきものは聖霊なんですよ。なんでかといったら聖霊というのは神の慈しみの憐れみの原動力だからですね。だから最後に願うのは聖霊になるんですね。聖霊に必要なことがあるならば全部かなえてくださる。善きサマリア人のたとえ話から言ったら必要なただ一つのものは神の慈しみと憐れみなんですけれども、11章の祈る時にはのセクションからいったら、ただ一つ必要なのは聖霊なんですよ。みなさん聖霊からお願いすればいいと思います。聖霊は全てをしてくださいますから、癒しも赦しも愛する心もわたしたちの平安、力づけから全てを成してくださいます。わたしたちは聖霊に願うという事。それを心の底からされたらいいと思います。聖霊に願えば願うほど聖霊を与えてくださる。聖霊のあるところには神の慈しみと憐れみの心が広がっていきますから、そのようなことを願われたらいいと思います。聖霊を願うということで、ルカの続きが使徒言行録なんですけれども、2章の1節が聖霊降臨。最初に聖霊の恵みが与えられたら言語が違う人々が理解できる。いろいろな国から来ているんだけど、それぞれの国の人がそれぞれの言葉でお互い理解しあえるという、不思議なお話が出てきて、色んな言語の人がどうして分かり合えるのか。それは最近思ったのが、それは互いに愛し合っていたからですね。本当の共通言語は愛なんですよ。本当のみんなの共通言語は。だから神の慈しみと憐れみなんです。それが本当の共通言語なんです。だからお互い理解できる。それを本当はわたしたちができれば言葉の違いとか文化の違いとか超えて、愛が共通言語なんですね。それを生きるならば全てがお互い理解できて、一つになれるんですね。だから神の慈しみと憐れみ、神様は一つですから、それこそが本当の共通言語で、それをわたしたちは分ち合っていくということが大切なことになります。そのようにして必要なことはただ一つ、これをわたしたちは分ち合って、それを一番大切にしていけるように生きていけたらいいのではないかと思います十

 

 

 

[必要なことはただ一つだけ。

神の慈しみと憐れみの中で生きること]

 

 

 

 

2017年11月23日 (木・祝) 日本カトリック神学院 東京キャンパス 聖堂於

イエズス会助任司祭 英 隆一郎神父 ザビエル祭 講演会記