カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-02-04  祈りを生きる

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

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マルコによる福音書 1章29-39節(そのとき、イエスは)会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された十

  今日の福音書はマルコの1章。イエス様の初期の頃が描かれているところが朗読されました。シモンの姑を癒すという行いをした後、そこの家に泊まられたんだと思いますが「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」イエス様は神の子として、神様との深いつながりがあったでしょうけれども、朝早く誰もいない所へ行って、長い祈りをささげていたわけです。こういうところから祈るということが大切だということが良く分かると思います。イエス様の祈りはただ祈るということだけではなかったわけで、この祈った後に「近くのほかの町や村へ行こう。」と働きにつながっているわけです。祈りと働きは不可分だというのは、こういうところから分かると思います。イグナチオ教会ではミッション2030で、今年は祈りを深めるというテーマでやっていますけれども、祈りを深めるというのは単独で祈りを深めればいいということだけではなくて、祈りを深めることがわたしたちの働きや使命とか、そういうものにつながっていくようにということですね。だからこの2月の祈りのカードでは使命を果たせるように、あるいはイエス様と共に働いていけるように願うことになっています。来年度は福音を伝えるという働きに向けてという意味も込めて、今月はこの共同祈願をささげているわけです。大事なことは祈りか活動かではなくて、祈りと活動がつながっているということが大事だと思います。祈りを深めながらわたしたちの働きがイエス様と共に働いて行く。使命を果たしていく。活動していくということ。そういうこととつながっていることの大事さだと思います。働くということですけれども、人によって働きは違うし目立つような活動をする人もたくさんおられるでしょうし、あるいは目立たないことを黙々とされる方もおられると思います。この祈りと働きのことを考えた時に思い出すのは、イエズス会の先輩でブラザーゲップという方がおられて、隣りの上智大内にSJハウスという神父様方が住んでおられる修道院があるわけですが、一時は百人ぐらいの活気のある修道院でして、立派な神父様方が働いておられたんですが、その中でも誰が一番神様に近くて祈りを深めているかと言ったら、ほぼ全員一致でブラザーゲップが素晴らしかったと言っておられた。そのブラザーはどういう仕事をしておられたかというと、伝統的なブラザーの姿なんですけれども、主に家の中の仕事。雑用係のような。彼の仕事部屋は地下室にあって、そこで裁縫をしたり洗濯をしたり香部屋関係の物を準備したり、仕立ても上手で背広を作ったりすることもできた。ほとんど外に出ないで黙々と仕事をされている方でした。祈りを深めて働きに直結している人がブラザーゲップが一番だと、ほとんどの神父様方がおっしゃっていた。わたしもお会いしたと思うんですけれども、名簿を見たらわたしの入会の後に亡くなっていました。働きとか活動とかは何をするかというよりは、どのような祈りの心で行うか。そのブラザーは説教も人前で話すこともしなかったですけれども、その人の生き方そのものが尊いことだというのがしみじみ思うことです。その方は真似できないレベルだったんですけれども、日本に来られて何十年も毎日働かれて一日も休まなかった。一回だけ神父様に連れられて山登りに行ったそうですが、その山小屋でも修理とか修繕をしていて、結局はずっと働いていました。修道院の地下室に働く場があって、ブラザーの部屋が、つまりベッドが無かったんですね。だからベッドでは寝ずに作業場の椅子や机で寝ておられた。聖人レベルになるとベッドで寝なくなるんですね。前の前の総会長も前の総会長もベッドで寝ていなく、世界中回ってもそうでした。ヨハネ・マリア・ビアンネという聖人も自分の部屋を持っていなかった。いつも御堂で祈っていてベッドが無い生活だった。わたしはできないですが、みなさんも真似せず普通の方がいいと思いますが。わたしたちが祈りを深めながら、日々の生活で働くということをつなげていくということが大切だと思います。もう一つ別のブラザーが話していたことですが、ブラザーオシナという方がいらして、スペインのブルゴス出身でそこには立派な大きな大聖堂があるんですけれども、その大聖堂を作るのに400年かかったという。ある意味延々と働いていたわけです。ブラザーオシナがよく言っていたんですけれども、そこは毎日毎日、石を切って運んで聖堂を築いていたんですけれども、二人の労働者がいて、一人の人にあなたは何をしているんですか、と聞いたら、ただ石を運んでいるんだ、という。毎日毎日、いかにもつまらなそうな退屈そうな顔をして言いました。二番目の人に、あなたは何をしているんですか、と言ったらその人は顔を輝かせて、素晴らしい大聖堂を神様を賛美するために作っているんだ、とニコニコしながら話したというんです。同じ石を運んでいて嫌々やるか、神を賛美して神様のために働くかで、同じ働きでもだいぶ変わってくるわけです。第一朗読は「奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ傭兵のように報酬を待ち望む。」嫌々働いているわけですね。奴隷のような苦しみを語っている。でも第二朗読でパウロは「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。」「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」パウロの方は自由な心で神様のために喜んで働いている。わたしたちが祈りの心を持って働くというのは、パウロのような態度でしょう。ついわたしたちは嫌々とかイライラとかそれは奴隷のような形で祈りを失った働きと言えるかもしれない。わたしたちはパウロのように、もちろんイエス様のように、あるいは祈りを生きているブラザー達のように、祈りの心で喜んで日々の生活を愛の心を持って働く。これができればわたしたちは素晴らしい平日を迎えられると思います。日曜日にホッとするだけではなしに平日に祈りの心でわたしたちは過ごすことができると思います。神様に心を向けながら、神様の恵みの中で、わたしたちが日々の活動を歩んでいけるように、力を願いながら日々を送れるように、このミサでお祈りしましょう十

 

 

 

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第一朗読  ヨブ記 7章1-4、6-7節
(ヨブは言った。)

この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。

傭兵のように日々を送らなければならない。

奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ

傭兵のように報酬を待ち望む。

そうだわたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。

労苦の夜々が定められた報酬。

横たわればいつ起き上がれるのかと思い

夜の長さに倦み

いらだって夜明けを待つ。
わたしの一生は機の梭よりも速く

望みもないままに過ぎ去る。

 忘れないでください

わたしの命は風にすぎないことを。

わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。

 第二朗読 コリントの信徒への手紙 第一 9章16-19、22-23節

 (皆さん、)わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです十

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2018年 2月 3 日(土)18 時ミサ
 年間 第 5 主日〈緑〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 助任司祭 ミサ説教記