カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-02-25 これはわたしの愛する子 これに聞け

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

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マルコによる福音書 9章2-10節 (そのとき、)六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った十

 今日の第一朗読は、有名な箇所だと思います。アブラハムが神様から命ぜられて、愛する一人子、イサクを神様に屠ろうとするお話です。息子を屠ろうとする直前に、神様の御使いが待ったをかけて、そして代わりに一匹の仔羊をささげるというお話です。この話は現代人の感覚からすれば、どう受け止めればいいのかと思われます。息子をささげようとしたアブラハムの気持ちは一体どういうものだったのか。あるいはいけにえとしてささげられされそうになったイサクの気持ちですね。お父さんに屠られて殺されようとする、その時にイサクの心の中にどういう思いが発したのか。アブラハムの葛藤の心の中の思いと、息子のイサクの中の葛藤というか不安というか、そういうものも合わさって、このお話が語られているわけです。わたしたちは四旬節にあたり大切なものを、あるいは自分自身をささげる。あるいは命をささげるというものは、一体どういうものなのか、ということを見つめ直してみる事が大切なのかもしれない。ささげるというのは、あまり現代の日本社会では注目されないものですけれども、わたしたちが何か大切なもののために、自分自身をささげていこうとするのは大切なことだと思います。この父と子の関係の中で命をささげるというお話は、森鴎外の「最後の一句」という小説があり、考えさせられるお話です。大阪で船乗りの桂屋太郎兵衛は災難にあい、それに乗じてお金を盗もうとしたけれど、それが発覚して死刑判決にあった。奥さんはショックでダウンしてしまうんですけれども、長女の「いち」という十六歳の少女が気丈で、弟や妹を連れて陳情に行くんです。嘆願の内容はというと、お父さんの命を救ってもらう代わりに、自分の命をささげるという、それを紙に書いて出すわけです。お父さんの命を救ってくれる代わりに、自分は殺されてもいいですから、と言いに行くんですね。そして当時の白州という裁判所で、お奉行以下役人が何回もいちに言うわけです。本当にいいのか。お父さんが救われて、お前の命はいいのかと。いちの気持ちは全く変わらず、自分の命をささげていいですと。お弟と妹は少しぶれるところがあるんですが、いちが言うんです。「お上の言うことには間違いはございませんから」その一言が役人たちの胸を刺したと。その一言で役人たちのほうが動揺してしまって、結局天皇の即位で恩赦が出て、お父さんの命が救われるという。そのいちの覚悟というか、十六歳の少女がお父さんを助けるために、自分の命をささげるという決断そのものは、マルチリウムというドイツ語で殉教という意味ですね。その言葉を小説の中ではっきりと森鴎外は書いてあるんです。ただ江戸時代の役人は言葉の意味も分からなかったという。森鴎外は乙女峠のある、山口県の津和野出身なんです。明治になってから多くの切支丹が浦上四番崩れで連れていかれて、拷問があったり殉教したりした所の出身なんです。だから明らかに切支丹の殉教も知っていたと思います。多分いちの生き方の中に、切支丹の殉教者の気持ちを書いていたのかもしれないですけれども。森鴎外の小説はだいたい個人の生き方に対して、それを貫けない、世間の風とか家族のしがらみとか。あるいは人間の運命とかそういうものの中で葛藤する人々のことがずっとテーマなんです。家族の意向とか国の意向に負けてしまって、志を変えてしまうのがある。その流れに対してはっきりと逆らうというか、命をかけて違う道を示したのが、いちという主人公だと思います。しかもそこに自分をささげるという、いさぎよさがはっきりと表れているわけです。他にも「山椒大雄」の小説で、姉の安寿が自分の命をささげて、弟の厨子王を助けるという。ささげることによって何かを助けようとすることは、人間の持っているものの中の最も難しいけれども、最も美しい行為であると言えるかもしれない。アブラハムはイサクを屠らずに済んだわけです。いちも覚悟があったけれども、役人たちが負けて、結局みんな助かったわけですが。愛するわが子をささげたのは、実際にささげたのは、御父とイエス・キリストですね。御父の意向だったのか、イエス様の意向だったのか、愛する御一人子をささげ尽くすことになった。この四旬節はそのイエス様のおささげの準備を、わたしたちはしているわけです。イエス様が自分の命をささげ尽くした御父が、御子をささげ尽くしたことによって、今日の福音書の主の変容の素晴らしい世界が広がっている。それはわたしたちの救いに直結しているものです。ささげ尽くした先にあるものは恵みの世界、救いの世界が広がっている。だからささげることには大きな意味があるだろうというふうに思われます。わたしたち一人一人が出来ることは、ごくごく小さなささげものですけれども、この四旬節で、わたしたちの大切なものの何かを、少しでもささげていくことが出来たら、神の大きな恵みの世界を味わっていくことが出来るように、共に祈りたいと思います十

  

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第一朗読  創世記 22章1-2、9a、10-13、15-18節
(その日、)神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ(た。)そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 第二朗読  ローマの信徒への手紙 8章31b-34節
 (皆さん、)もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです十

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2018 年 2 月 25 日(日)8 時半ミサ
 四旬節 第2主日〈紫〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 助任司祭 ミサ説教記