カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-05-20 父のもとから出る真理の霊

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於 聖霊降臨の主日

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ヨハネによる福音書 15章26-27節、16章12-15節
 (そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」十

 今日は聖霊降臨の大祝日にあたっています。先週の日曜日が主の昇天、ご復活されたイエス様が天に昇られ、使徒言行録のはじめでは、使徒たちがあっけにとられて、空を見上げていたら天使が来て、何で空を見ているのかというところです。イグナチオの信者さんが多いと思いますが、主の昇天に合わせるかのように、ケルクマン神父様が15日天に召されました。5月13日の日曜日には働いていらしてましたが、体の調子が悪そうで、一緒に住んでいる仲間達も、早く病院へ行くようにとすすめていたんですけれども、教会の仕事があるということで、なかなか病院へ行かなかった事もあり、先週の11日金曜日に検査で白血病と分かってすぐ入院をすすめられていたんですが、土日に仕事があるからということで、ずらして、14日月曜日にやっと入院されてホッとしたんですが、癌の転移が体中に周っていて治療が遅すぎていて、翌日15日火曜日に天に召されてしまいました。弟子たちのようにあまりの事にあっけにとられました。イエス様の昇天は喜びが大きかったでしょうけれども、あまりに突然で、誰もお別れの挨拶もできなかった。非常にショックで、みなさんもそうでしょうが、神父様方もがっくりしていますが、神父様の仕事の引き継ぎや段取りばかりで追われていました。突然に亡くなられた方のご家族は同じでしょう。深い悲しみと共に、やらなければならないことが押し寄せてきて、両方に引き剥がされそうな感じもあります。イエス様が亡くなって復活されて、聖霊降臨までの復活後五十日、五旬祭ということで聖霊が降った。やはり五十日間あるということは、人間の心のペースみたいなものがあるのではないかという気もします。というのは仏教式にお葬式をすると、四十九日でほぼ同じです。五十日から一日引いた、四十九日に集まってお祈りをささげる。それがだいたい習慣ですけれど、やはり人間が何かを受け取るには、一つの時間的な区切りというのが必要だからではないかと思います。イエス様が生きている間、弟子たちはイエス様のおっしゃる本当の事を分かっていなかったのでは。三年半、一緒に生活をして教えを聞いたはずなんですけれども、ほとんど分かっていなかったと思います。イエス様が誰であるかすら分からなかったし、イエス様の教えの要理、あるいはイエス様が十字架に架かられるということを、どれも何にも分かっていなかったと思います。でも亡くなって復活されて、やっと少しづつイエス様のことが分かりだしたと言えるでしょう。それはわたしたちにしてもそうかもしれない。ご家族が亡くなられた方もこの中にはおられると思いますけれども、一緒にいる時は分からないんです。でもその人がいなくなって、初めてその人の大事さが分かる。特に自分の親とか、あるいは自分の配偶者とかいる時は分からないんですけれども、いなくなって初めてその人の存在がどれほど大きなものか、あるいはどれほど何かの恵みを受けていたのか、満たされていたのかはその時は分からないけれども、後から分かる。だから福音書でイエス様が言われるのはその通りなんです。「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。」今は理解できない。生きている時は何も分かっていなかったけれど、でもイエス様が十字架に架けられ復活して天にあげられて、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」その後に真理の霊が来て、初めてイエス様の言っていることがどういう事なのかが、後になって分かるとイエス様はおっしゃっているんですけれども、その通りです。その時に分からないんだけれども後になってみて、あの時の事はこうだ、ああだとかという事が、真理の霊に照らされて初めて分かる。だからわたしたちはやはり時間がかかるということです。この五十日後に聖霊が降ったという事は、どういう意味か振り返った時だと思います。イエス様は本当に復活されたんですけれども、それがどういう事だったかという事を振り返るために、大きな事であればあるほど日数がかかって、五十日ぐらいは意味が分かるまでかかるでしょう。人の死を受け入れるにしても、自分に襲ってきた大きな苦しみにしても、困難にしても、喜びももしかしたらそうかもしれない。わたしたちはだからこそ、一つの事を受け入れるのにある程度時間をかけなければならないし、その中で少しづつその意味が分かってくる。だから真理の霊なんです。それは本当にそうだとか、これがこうだとか、だんだんとわたしたちはそれを悟る恵みを、聖霊が保証してくださっているわけです。でも分かるというのはどういうことなのか。今は分からないけれど、過去の事は理解できるんですね。記憶を通してやっと今悟る。でも悟ることは単に真理の霊で満たされるというのは、ただ過去の思い出に浸るのではない。過去の事を振り返るのは、聖霊の力に支えられて、未来に向かうということです。今と未来に向かっていくために。だから聖霊を受けた弟子たちは、ここから新たに歩みが始まる。イエス様が誰であるか人々に伝える使命は、ここからはじまるわけです。過去を振り返ることによって、過去の真理を生みだすことによって、前に向かって、周りの人に向かって、その真理を生き、その真理を述べ伝えていくのです。わたしたちは多分このような力強さの中にいつもいると思います。聖霊がそれを保障してくださっていると思います。だから聖霊の働きは、闇雲に元気や力を与えてくださる盲目的なものではなくて、真理に支えられた恵みをしっかり振り返って、自分にとって何が大切かをしっかり確認した上で、今から未来に向かって生きていく、その力がわたしたちに与えられているということです。だからこれが本物の希望だと思います。根拠なしの希望ではなくて、真理に基づいた希望がわたしたちに与えられている。それがわたしたちに与えられている聖霊の恵みです。そのためにわたしたちは振り返ったり、反省しなければならない。過去の出来事がいくら辛いものとしても、それを受けとめて大切なものを見い出すならば、わたしたちは未来に向かって歩んで恵みになる。その聖霊の力がわたしたちに与えられている。だからこれはわたしたちにとって、本当のお恵みだと思います。ケルクマン神父様の事はまだ受けとめ切れていないですけれど、教会にとっていつか恵みであると思える時が来るでしょう。聖霊の恵みに支えられて、しっかりと過去を見つめながら、未来に向かって歩んでいけるようにお互いのためにお祈りいたしましょう。困難な事もいろいろあるでしょうけれども、わたしたちは聖霊に支えられて、前に向かって歩んでいけるように、このミサでお祈りをささげましょう十

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 第一朗読 使徒言行録 2章1-11節
 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

第二朗読 ガラテヤの信徒への手紙 5章16-25節
 (皆さん、)霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう十

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 2018 年 5 月 20 日(日)18 時ミサ 
 聖霊降臨の主日〈赤〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記

 

 ある日、道端の花に向かって言いました。「そこにずっといて嫌にはならないですか?」すると花が答えました。「私はここを動くことができないけれど、地に深く深く根をはっていきます。わたしはここにしかいられないけれど、天に向かって高く高く咲き誇ります。これからのみなさんにこのお話を送ります。

 

2017年11月5日 ( 日 ) マリア聖堂於 ケルクマン神父講話より