カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-06-17 愛 喜び 平和 寛容 親切 善意 誠実 柔軟 節制

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

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マルコによる福音書 4章26-34節 (そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された十

    今日はマルコによる福音書の4章です。神の国のたとえのところです。イエス様は様々な神の国のたとえを話されています。特にこの植物のような、当時、そばにあるものを使って、たとえて語られることは多かったと思います。種を蒔いて、知らないうちに成長するし、驚きのように思うことはよくあります。植物もそうですが、人間もそうです。この教会に来て5年になりますが、一番驚くのが子供の成長です。小さかったのに、背が伸びて中学生になっていたり、人間の成長は、あっという間ということはあると思います。イエス様は植物で神の国をたとえをしているわけです。知らないうちに神の力で、植物にしても、神の力で大きくなり、広がっていきます。でもどんな植物でもそうですが、特に実のなるものは、人間が手入れをして育てることはよくあることだと思います。私は以前、自然豊かな鎌倉の黙想の家に住んでいて、一緒に住んでいた年配の神父様は、畑仕事が大好きでした。色んなものを植えて、育てるのが大好きで、特に今頃の食卓では、ほとんどがそのお話でした。芽が出たとか茎が伸びたとか、雨が降ったとか、植物を育てているのを慈しんでいる、窓から見て、気がつくと植物が伸びていた。人知れず神の恵みで、植物は大きくなっています。農夫は神様かもしれない。どれほど一つ一つの木や植物に心をかけて、肥料が足らないとか、虫がつかないかとか、水をたくさんあげなければとか、神様の心遣いのもとに、植物にしても木にしても、だんだんと大きくなっていく。そして実を結ぶ時が来るわけです。その神父様が楽しみの一つは、収穫なんです。収穫したものをみんなに配る、もちろんいただきましたし、黙想会に来る人にも、お土産に渡していました。収穫をみんなで分かち合うという、植物を育てる人たちの醍醐味だと思います。特にうまくできた年は。できない時もあるけれども、野菜にしても何にしても、たくさんできた時に、自ら食べるだけではなしに、多くの人に分かち合う喜びが、本当に育てることの喜びの一つだと思います。今日の福音書にも「その穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」そこにも豊かな恵みができる。実が熟すと、収穫の時が来たということです。実りを結ぶということが、最終目標になるわけです。では神の国の実りは一体何か。あるいは、少し時間がかかって、茎から芽を出して、育ててみなければ分からないですが、私たちの信仰生活の実りとは一体何か。それは聖書の中でいうところの、聖霊の実りだと思います。ガラテヤ人への手紙5章。九つの実り。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。」この実りを結んで行く、自らも味わうし、それを人々と分かち合っていく。それが神の国の実りであり、喜びだろうと思います。神の恵みですけれども、それは種を蒔いて、育てる人は、協力者が必要だと思います。ある神父様が、子供たちに説教している時に、一つのたとえ話をされた。天使のスーパーマーケットがあって、何を売ってるかというと、愛とか平和とか、希望とか喜びを売っているスーパーマーケットです。ある人がスーパーマーケットに買いに行ったら、棚を見たら愛、平和、喜びとか何もなかった。店員さんの天使に聞いたら、愛とか喜びとか平和を買いに来たけど何もないではないですかと言ったら、店員さんが、よく見てください。ここで売っているのは種だけなんです。種をあなたは買って、蒔いて育てて、愛とか平和の実りをができるんです。と言いいました、というお話です。皆さんがミサに集まっているのは何のためなのか。種を持って帰るためです。もちろんミサに参加して、平和とか愛とかの気持ちをいただくでしょうけれども、ミサで配られているのは種なんです。その種を日常生活の中で蒔かなければなりません。日常生活で少しずつその種を、信仰の木を少しずつ育てて、そして日常生活で聖霊の実りを実らせなければなりません。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。このような実を皆さんの生活の中で実らすんです。ここにも実りはありますけれども、平和な気持ちになったり、愛の気持ちになったりすることもあるでしょうけれども、ミサで持って帰るのは、実りではなくて種です。皆さんがその種を育てて、人によっては忙しい、問題ばかり抱えているその社会の中で、信仰の木を育てて、聖霊の実りを分かち合う。そういう尊い使命が与えられています。この教会の今年の目標は、福音を伝えるということですが、福音を実らせるといってもいいかもしれない。福音を皆さんの職場とか家庭とか、そういう中でこの実りが実っていくことが、神の恵みの中で、それを私たちも手伝わなければならないです。皆さんの月曜日から土曜日の中で、このような実が少しでもなっていくようにお祈りしましょう。そのためには種だけではなく、日当たりとか水とか栄養とか、色々必要でしょう。そのようなものも、主が与えてくださいます。私たちの愛の心とか、日々の祈りとか、周りの人に誠実に接していくような、そういうことの中で信仰の木が少しずつ成長して、いつか木が大きくなって、その実りを分かち合うことができる。本当に収穫の喜びを分かち合う。これこそが、私たちの神の国の喜びです。それを目指して少しでも、神の恵みが働くように、お互い祈り合いながらこのミサをあずかりましょう十

      

第一朗読  エゼキエル書 17章22-24節
 主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

 第二朗読 コリントの信徒への手紙 第二 5章6-10節
 (皆さん、わたしたちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています。)それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです十

      

 

 2018 年 6 月 16 日(土)18時ミサ 
  年間 第 11 主日〈緑〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記