カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-04-29 あなたがたがわたしにつながっている

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於

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ヨハネによる福音書 15章1-8節(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」十

 今日の福音書は、ヨハネの15章、有名なたとえのところです。イエス様ご自身がぶどうの木であって、弟子であるわたしたちは、その枝であるということです。イエス様がぶどうの木、わたししたちはその枝であって、そのわたしたちの枝を通して、イエス様が豊かな実を結ぶことを、望んであられるということです。そのことをわたしたちはしっかりと受けとめたいと思います。ぶどうの枝ということですけれども、枝そのものには価値が無いというか、ぶどうの枝そのものにはほとんど価値が無いといわれています。たとえば枝を肥料にしようとしても、ほとんど栄養分が無いので、肥料としてはほとんど価値が無い。あるいは枝を薪にして燃やして、火にしようとしても、あまりよく燃えないんです。薪としても使えないし、枝から繊維をとって、何かにしようとしても弱くて使えない。つまりこのぶどうの枝は価値が無いというか、ぶどうの実を実らすために、枝があるわけですけれども、それ以外何の価値もないんです。でも逆に、もし枝が全く無ければ、ぶどうの幹だけだったら、ほとんど実りをもたらすことが出来ないわけです。ほとんどそうですが、枝が無ければ幹に直接ぶどうの実が実るようなものだったら、一本の木から大した実りをもたらすことが出来ない。つまりイエス様一人だけであるならば、大した実りを実らすことが出来ない。枝がいっぱい伸びているからこそ、この枝を通して、多くの実りを結ぶことが出来る。枝そのものには価値が無いけれども、でも枝があるからこそ、確かに多くの実りを結ぶことが出来るわけです。特に山梨とかでぶどうの木を見た時に、一本のぶどうの木から、すごくたくさんの枝を伸ばしている。この聖堂の広さで2,3本の木の枝を広げているんです。それは日本の農業の技術でしょうけれども。わたしたちは枝そのものとしては、それほど価値は無いわけですが、でもイエス様に従って、実りを結ぶ役割というか、パイプ役みたいなのが、わたしたち一人一人に与えられていることは間違いないことです。イエス様の手足となって、イエス様の実りを人々に伝えていく。一人一人が小さなパイプ役となって、わたしたちは存在しているからこそ、イエス様の恵みが多くの人に注がれる。わたしたちは枝であるということをしっかり役割というか、それを意識することが大切でしょう。でも枝であるというのは、どれほど幹からエネルギーをもらわなければ、あんなに大きなぶどうの実りを結ぶのは、農家の方の努力もありますが、枝がどれほどイエス様としっかり繋がっていて、そのエネルギーを汲まない限り、あんなに美味しくて、あんなに大きいお恵みをもたらすことはできないと思います。だからわたしたちがイエス様に繋がっているということは、ダイナミックな命の誕生というか、その働きの中にわたしたちがイエス様からのエネルギーを貰わなければ、大きな実りを結ぶことが出来ない。主はわたしたちがどういう実を結ぶことを望んでおられるか。豊かに実を結ぶという、この実はなんなのか。いろいろ考えたり黙想したりすることも多いですが、やっぱりこの世的な目に見えるものではないと思います。イエス様が望む実り、それは実際は聖霊がわたしたちを通して働いて、聖霊の結ぶ実のようなものだと思います。それはガラティアの5章による「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」そのような実りが結ばれていくように願いながら、生きていきたいと思います。だからわたしたちは病室で寝ていようが、会社で忙しく働いていようが、家庭の中で仕事をしていようが、どこにおいてもこの実りは豊かに結べると思います。わたしたちがイエス様から聖霊をいただいて、その場で神様の愛や平和や喜び、そういうものをみんなで分ち合っていく、それをイエス様が望んであられる。イエス様は多分この世界の隅々にまで、ご自分の実りを結んでほしいと願っておられる。わたしたちはその隅々にいるわけですから、イエス様に本当に繋がって、この枝を端の端まで伸ばして、そこで実りを結べるように願いましょう。   もう一つ、日本は湿気があるから枝を上の方に吊るすんです。だからぶどうの木というのは割と良くみえるんですけれども、パレスティナ地方はほとんど雨も降らないから、枝を吊っていなかったんじゃないかといわれていて、ほとんど枝は地べたを這っていたんです。人工的に吊らない限り、ぶどうの枝というのは、自分の力では上に伸びないんです。つまり枝に力が無いから、ベタっと這うだけなんです。だからこれは地面を這うだけなんだろうと言われているんです。その話をあるフランス人の神父様にしたら、フランスのある地方では実際そうしている。むしろ吊らないで、地面にそのまま這らしている所もあると。そうすると地面の熱で、良いぶどうが出来ると。雨降ったら終わりになってしまいますが。だからぶどうの枝であるということは、本来的には地べたを這って、そこで実りを結ぶんです。かっこ良く上に吊るすのは人工的なんです。枝があるというのは、自分の力で上に上がれないので、地べたを蔓のように這っていって、そこで実りの実を結ぶことなんです。だからわたしたちも立派なところでは無くて、隅々というか地面の下の方というか、そういう所にこそ実りを結んでいく、それがわたしたちの与えられている恵みであり使命だということです。わたしたちの日常の小さなところ、社会の底辺だと思われる下のような所、そういう所にこそわたしたちは実りを結んでいくことが出来る。そのためにわたしたちがこのミサで、イエス様と本当に繋がって、エネルギーと力をいただいて、わたしたちの枝の先で、この実りを結べるように共に祈りをささげましょう十

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 第一朗読  使徒言行録 9章26-31節
 (その日、)サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。

第二朗読  ヨハネの手紙 第一 3章18-24節
 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。神の掟を守る人は、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります十

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2018 年 4 月 29 日(日)7 時ミサ 
復活節 第5主日〈白〉B 年
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記