カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-07-07 合同追悼ミサ

英神父 ミサ説教   聖イグナチオ教会於 合同追悼ミサ

マタイによる福音 11章25-30節 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」十

 今日、お集まりの方々は、この一年の間に身内の方などを亡くされた方々が集まっていると思います。イエズス会の神父様も何人か亡くなりましたので、わたしもその中の一人と言えると思います。人が亡くなるとなぜ辛い悲しい気持ちがするのか、人間としては当たり前の気持ちですけれども、簡単に言えば、つながりが切れてしまう。昨日までつながりがあったのに、亡くなった途端につながりが切れてしまう。そういうところから悲しみが来ていると思います。先日わたしの修道院の部屋の隣と、隣の隣の方が亡くなられました。まったく予想もしていなかったので、非常にショックでした。それは昨日まで顔を見て話をしていた方が、突然話ができなくなっていなくなってしまったというところから来ていると思います。考えるに人間の命そのものは、つながりから来ているというか、単体の命というわけではなくて、命というのは、色々な人とのつながりの中にあるということ、それを実感します。生命がお母さんのお腹に宿った時から、お母さんとのつながりの中で育ってくるわけだし、子供として生まれてきても、お父さんお母さんとのつながり、家族とのつながり、働き盛りの時は社会とのつながり、年をとれば介護をしてくださる方や医療関係の方とのつながり、人間の命はいつもつながりの中で、命があるということを痛切に感じることではあります。わたしたちカトリック信仰者であるものにとって、死が終わりではなく、わたしたちのつながりが一旦切れたように見えても、天の国で命は続いているわけだし、神様との大いなるつながりの中に命があるという事、それをわたしたちは思い起こさなければならないと思います。父親を6年前に亡くしたんですけれども、わたしは元々修道生活をしていますから、父と会うのは年に一回か二回ですし、家族同士では、ほとんど連絡を交わしませんでした。実家が神戸で母は神戸に今もいて、父は6年前に亡くなっているんですけれども、でもいまだに神戸にいるような感じがします。もちろん連絡は取れないけれども、いまだに父は神戸にいて、帰った時は会えるのではないかと、そういうつながりの気持ちが抜けない気もします。先日亡くなられた佐々木神父様もケルクマン神父様も、下関や福岡などへ派遣されていて、イエズス会同士でそんなに連絡もとらないですが、いまだにどこかで働いている気がするんです。それはどこかの土地ではなく、彼らは天の国にいるわけで、わたしとつながりが切れていないとどうしても思います。一旦少し離れているだけで、心から湧いてくる悲しみや寂しさが無くなるというわけではないですけれども、つながりが切れているという感覚はどうしても個人的には持てません。だから天の国にいるのと、神戸にいるのとも違わない、もしかしたら天にいる方がわたしたちに近いかもしれない。そのようなつながりの中に、わたしたちの命はあるのではないかといまだに思います。そのつながりのことを先ほどの第一朗読の聖書の中で「互いに愛し合いなさい」という、イエス様の掟ですけれども、わたしたちが命がつながっている以上、人間は互いに愛し合うようにつくられてるように思います。そして神様とわたしたちとのつながり、それは今、福音朗読した「幼子のような者」柔和で謙遜にイエス様に全てを委ねるような、わたしたちの悲しみや辛さ、疲れや重荷、それらをイエス様のもとに全て委ねて、イエス様に学び、イエス様と共に生きていく、そうすればあなたがたは安らぎが得られると、イエス様は言ってくださっています。 亡くなった方々はもっとはっきりと神様とのつながりの中におられるでしょうから、わたしたちが感じるよりも、もっと深い安らぎの中におられるでしょうし、わたしたちも神様とのつながりを思い起こす時に、この世の悲しみや寂しさを超える、安らぎの世界に、わたしたちが導かれているのではないかと強く思います。この御堂は真下そのものがクリプタといって、御骨が置いてあるわけです。それはわたしたちがお祈りするために、亡くなった方々に繋がってるというか、支えられているというか、そういうことも強く感じます。日頃はこの世のことばかり考えますが、最近亡くなられた佐々木神父様やケルクマン神父様に支えられているというか、彼らの働きの上に自分の働きがつながっているというか、まだ二人の御骨は納骨されていませんが、彼らが今まで歩んできたものの上に、それを引き継いで、今でしたら教会で働いている神父様たちの働きが引き継いでいるような、つながりというものを感じます。だから感謝の気持ちが湧いてくるし、わたしたちが祈るだけではなしに、彼らもわたしたちのために祈ってくださっているような気もします。この御堂の好きなところは天井です。上が花のような形になっていますが、これが永遠の命の象徴です。神様の恵みの世界、多くの花びらが重なって、一つの大きな花になっている 。この大きな永遠の命の象徴の花は、神様と亡くなられた方々の霊魂のつながりの美しさだと思います。永遠の命というのは、神様を中心とした、亡くなった方々の魂が重なり合って、大きな大きな一つの綺麗な花を描くようなこのような形。それがこの天井にあるということも、大きな希望や慰めを与えてくださっているようにいつも思います。晴れているときは、驚くぐらい天井が輝くのです。そのような大きな輝きが永遠の命の喜び、神様と個人個人ではなくて、その方々全てがシンフォニーを奏でるように大きなつながりの中で大きな一つの花になっている。そのような永遠の命の喜びにわたしたちは招かれている。亡くなった方々の多くの命もつながりの中で、平安と喜びのうちに過ごされているのではないかと思います。そのような希望を持ちながら、わたしたちが死によってつながりが切れているように見えて、実はずっと大きなつながりの中に生きている。つながりを意識しながら、わたしたちが与えられた命を、つながりを大事にしながら歩んでいけるように、共にお祈りしたいと思います十

第一朗読 ヨハネの手紙 第一 3章14、16-20節
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。 これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、 心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。十

2018 年 7  月 7 日(土)
 合同追悼ミサ
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記