カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2018-11-23 福音を伝える

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会黙想会

ルカによる福音 9章45-48節 そのとき、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである十

  今日は一日、福音を伝えるというテーマで、神父様やブラザーのお話を聞いて黙想しました。もともとこの教会黙想会の最初は、このようにいろいろな人のお話を聞くような形で行っていたようです。今日はその形で行いましたが、祭壇で話す場所がバラバラで、四人それぞれ違う所で話され、話の内容もそれぞれ違ったと思います。午前中は福音を伝えるというよりは、福音をどう生きていくかという根本的な態度を、午後は福音を伝えていくミッションなどを、そのようなテーマを聴いて黙想することができたと思います。それはイエス様の望みというか福音を生き、福音を伝えていくように、イエス様自身がわたしたちに望んでいることは間違いないことだと思います。今日の福音書では神殿の中にいる人々を強く非難しています。「彼らに言われた。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」ルカでは簡単に書いてありますが、他の福音書では両替人の店を倒したり、 鳩を売るものなどをかなり乱暴にイエス様が振る舞うところが描かれています。いずれにせよイエス様は「強盗の巣にした」とおっしゃっています。改めてわたしたちは振り返なければならない点かもしれない。強盗というのは暴力的にみんなの持っているものを自分のものにしてしまうということです。自己中心的な生き方であると言えると思います。でもわたしたちの生き方が、神の御心に敵わない、奪い取ってしまうようなそのような生き方になってしまうならば、この福音を生きる、福音を伝えることと 相対してしまうということはあると思います。 この教会の中で犯罪のような強盗をする人はもちろんいないと思いますが、やはり 霊的なお恵みにしても、ただ単に独り占めしてしまうような生き方をするならば、それは一種の強盗の巣になってしまう可能性もあるでしょう。極端な話、この教会はいっぱいミサもありますから、ただミサに出てお恵みだけもらって、そっと帰ってしまうような、恵みをもらって、タダで帰るだけのことをもししているとしたらです。だから李神父様のお話は、ミサの 内容についての話だったと思いますが、確かに周りの人への心配り無しにするのはどうか。神父様が省かれたところですが、ミサの席では「アフリカより隣の席がもっと遠い」と書いてありました。(笑) つまり全く隣の人への心遣い無しに、ただ個人主義的にお恵みをもらって、ただ黙って何も言わずに帰るだけだとしたら、それはミサの本質からずれている。やはりお互い平和の挨拶にしろ、周りの人とつながりというか、分かち合いの気持ちで生きていくという、祈りに預かるということ自身が 大切である。もともと福音を分かち合っていく気持ちなしに、ミサそのものが成り立っていないということです。そこからわたしたちは思い起こさなければならない点かもしれない。そして田丸神父様もあげていた点ですが、神の前に豊かになるということはどういうことかということです。 ただ単に自分の中に恵みを 溜め込むことだけが豊かなことなのかということです。もちろんわたしたちの中には様々な問題とか苦しみとかありますから、とてもじゃないけれども余裕がない時もあるし、神の恵みなしに生きていけないから、そこに気持ちが集中してしまう ということは当然ありうるかもしれません。ただそこに止まっているというだけでは良くないということです。強盗のように恵みを奪い取るというだけではなくて、酒井神父様がおっしゃった和解とか、あるいはブラザー吉羽がおっしゃった分かち合いとか、福音の恵みというのがそのようになって初めて、本当の意味で神の前に豊かになっている。あるいは永遠の命につながるものはそういうものだと いうことを、確かに思いを起こす必要性があるし実践していく必要があります。和解ということだけを考えても、福音的な生き方を自分自身が原点に立ち返って考えた時に、しばしばエコロジーなことを考えます。 自然との和解というか、それですら人間は強盗のように大自然からただ奪い取っているだけでは、自然を破壊しながら人間の欲望に適うものだけを大自然から奪い取っているところから、何かずれているのではないかと思います。それは結局自分を大切にすることだし、自分との和解も含まれるし、当然自然との和解も含まれることです。福音 を生き、 福音を分かち合っていくということは、何か 物事の視点の置き方の違いというか、そこから隣人との和解、家族との和解、職場での和解で赦し合ったり、新たな絆を結んだり、嫌な人とも仲良くなっていくような、そのようなことが 福音を伝えていくことになり、つながっていくことになると思います。当然わたしたちは神様とのつながりを、いつもしっかり結び直す。そしてブラザー吉羽が言うように、分かち合いながら周りにいる具体的な人と、あるいは場合によっては自分に肌に合わないような、関わるのが難しいような人とも関わっていくように呼ばれている。それら全てが神の前で豊かになっていく、わたしたちの小さな毎日の努めの小さな積み重ねになっていると思います。それが福音を伝えるということだし、福音を生きていくということだし、このミッション、使命を果たしていくということにつながっていくと思います。それは特別なことではなくて、わたしたちの毎日の生活の中で、小さい形でも実践しなければならないと思います。酒井神父様が強調されましたが、本当の意味で協働、助け合いながら生きていく。教会では司祭中心であるとか、誰が中心であるとかではなくて、足らないもの同士が折り合いながら、わたしたちが助け合ってそれを実現していくということは非常に現実的なことです。スーパーマンのような人がやることではなくて、平凡なわたしたちが助け合いながら、それを実行していくときにこそ 、神の恵みが、イエス様の望みが果たされていくのではないかと思います。この福音を伝えるということは当たり前のことでもあるけれども、ある意味それ以上に難しいものではないかと思います。 わたしたちの気持ちを自分だけに閉じこもるのではなくて、周りの人に分かち合っていこうとする。心の扉を開いた、 生きる姿勢みたいなものが大切なのではないかと思います。わたしたちはついつい閉じこもりがちで、現代は複雑なので余計かもしれない。あるいはついつい一人になりがちとかです。 最近ネットに書いてあるのを見たら、隣の人とは喋らないのにSNSでは 1日10回以上チェックしたり、つながりといっても様々です。やはり周りにいる人が、 もちろん遠くにいる人とも恵みを分かち合っていかなければならない。 それが場合によっては赦しとか、赦し合いとか、本当の意味で和解が問われることも多々あるでしょうとは思います。 わたしたちはそのような気持ちで歩んで行くならば自分に閉じこもって、持っているものを自分の中に隠してジッとするような誘惑とか、自分の心地よいところだけで暮らしたくなる、過ごしたくなる誘惑とか、様々ありますけれども、イエス様の気持ちははっきりしていると思います。本当に 恵みを分かち合っていく。困っている人や苦しんでいる人。様々な方法で様々なレベルでということです。自分自身そういうことを意識しながら自分ができること、協働、自分ができる勤め、自分ができるところで手を差し伸べながら、わたしたちが少しずつ歩んでいけるように、そしてこの教会全体が本当に意識して歩めるように願いたいと思います。この教会は人数が多いから仕方がないかと思いますが、できれば隣に座っている人と知り合いになったり、そういうところからでも小さな福音の分かち合いにつながるのではないかと思います。教会として わたしたち一人一人の小さな力を 協働して、小さな力を神様に、イエス様に本当に喜ばれるように、あるいはイエス様が望んでいるような教会に少しずつできるように、わたしたちがつくっていくことができるように、心を合わせてお祈りしたいと思います十

 

第一朗読 ヨハネの黙示 10章8-11節

天から聞こえたあの声が、再びわたしヨハネに語りかけて、こう言った。「さあ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。すると、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使の手から受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べると、わたしの腹は苦くなった。すると、わたしにこう語りかける声が聞こえた。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない。」十

 

 2018 年 11 月 23 日(金)教会黙想会
 年間 第 33 金曜日〈緑〉B 年 
 カトリック麹町教会 主聖堂於
  イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記