カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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2019-02-17 貧しい人々は 幸いである

英神父 ミサ説教 聖イグナチオ教会 於

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ルカによる福音書 6章17、20-26節(そのとき、イエスは十二人)と一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、(来ていた。)さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」十

  今日はルカによる福音書の中のイエス様の説教のところです。ルカによる福音書では平地での説教。マタイによる福音書では山上の説教ですけれども、ルカは山から下りてきて平らなところで人々に説教されます。不思議な聖書のイエス様の言葉です。 「貧しい人々は、幸いである。」逆に「富んでいるあなたがたは、不幸である」とイエス様がおっしゃっています。わたしたちの普通の考え方と逆です。富んでいる人たちが幸せで、貧しい人々が不幸であると思うのが普通ですが、イエス様は「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」とおっしゃいます。それをどのように受けとったらいいのかということです。   最近、不思議な気持ちを感じたことは、ご存知かもしれませんが、都内にあるカトリック高円寺教会の司祭館が全焼してしまいました。高円寺の信者さんに話を聞いたんですが、朝の6時半から7時の間に聖堂で神父様がミサをささげている時間でした 。おそらく出火原因は漏電だと言われていますが、一階が事務室で二階が司祭館の建物が全部焼けてしまいました。その時はちょうどミサの時間だったので、神父様は助かりました。階段のところが激しく燃えていたと言うので、就寝中やミサ終わりで部屋に入って食事をされている時間だったら、神父様は助からなかったでしょう、とおっしゃっていました。ちょうどミサの時間帯だったから無事でした。でも全てが焼けてしまいました。タイミングはちょうどミサをしていた時で助かったというのが、何か不思議な気持ちになりました。教会の事務室で一番何が大事かと言うと、洗礼台帳です。みなさんが洗礼や結婚などを記録した台帳が戸棚にしまってあるんです。戸棚に鍵をかけて鍵は別のところに置いて管理するのが普通です。通報して消防車が数分の間にすぐ来たんですが、その間に、ミサにあずかっていたよく教会を知っている信者さんが、火が出ているのに一階の事務室に飛び込んで、鍵を取って戸棚を開けて、三段ぐらいあった洗礼台帳を全部外に出すことができました。そして消防車が来ました。水をかけたら書類とかはだめになってしまいますが、書類は全く無事で、データはコンピューターに保存してありますが水浸しで、だめかと思われましたが、メーカーに修理を依頼したら、データを取り出してくれて無事でした。どなたも怪我もされずに、大事なものも 取り出されました。御近所には御迷惑をおかけして、もちろん不幸な出来事ですが、そこには不思議な神様のはからいと言うかお恵みと言うか、それをものすごく感じた出来事でした。もちろん高円寺教会の信者のみなさんは、これからものすごく大変でしょうし、司祭館を立て直すかとか色々課題はあります。でもその時に「貧しい人々は、幸いである。」という言葉を思い出したことも確かです。 何か困った時に、あるいは苦しい状況に陥った時に、それでも神様の恵みなり助けなりが働いていたということを、わたしたちは感じ取ることができます。逆に言えば日常生活の中では、すべてが当たり前なら、それほど大きな感謝をすることはないかもしれません。でも何か困った時にこそ、神様の恵みを強く感じることがあるのではないかと思います。そういう時にこそ「貧しい人々は、幸いである。」ということをわたしたちは感じることができるのではないかということです。わたし自身の体験から言うならば、神父ですので貧しい所とか困難な所とかに行くことがあるんですが、大阪の釜ヶ崎で日雇い労働者の街で働いていた とか、東日本大震災の被災地へ行ったり、そういう貧しい所とか苦しんでいる所に行った時にこそ、神の恵みを強く感じるのは事実です。そこでこそ、神の恵みと力がより働いていることを、実感することがしばしばあります。逆にそこで人々が救われたり助けられたりしています。それはみなさんの体験の中でもあるかもしれない。病気をしたりして苦しい体験をする中で、神様に出会うという人も何人もおられる。あるいは何か人生で困ったことや辛いことがあったからこそ、教会の門をたたいて救いの恵みにあずかることを、体験される方も多々おられます。わたしが思うに、「貧しい人々は、幸いである。」ということは、神の目から見たら、あるいは神の恵みに焦点を当てた時に 、本当にこれは真実ではないかと思うことが度々あります。別の言い方で言うと、みなさんが今や昔に苦しみに耐えていたり、涙する体験が あるならば、そこでこそ神様の恵みを味わうことができる。神様の目から見たら、幸いを味わう機会がやってきたと言えるかもしれません。聖書の言葉は真実ですから、神様が嘘をつくはずがないわけです。この幸いを与えられている恵みが、クリスチャンに与えられていると言えるでしょう。この世の観点ではない、貧しい人にこそ与えられている幸いを、見出す恵みが与えられているということです。さらに言うならば、イエス様の言葉がわたしたちの生活でまさしく実現するように、生きていくことが可能だと言えます。貧しい中で、あるいは飢えている中で、泣いている人々がいる中でこそ、わたしたちは助け合うことができるでしょう。むしろわたしたちはこのような状況の中で、助け合ったり励ましあったりするから、本当の幸いが生まれてくると言えるでしょう。これは被災地にボランティアに行って度々経験することですが、イグナチオ教会からも広島での豪雨災害の後に、何人もボランティアに行きました。そこで不思議な幸いな気持ちを持って帰ってくるわけです。 貧しいところに、飢えているところに、泣いているところに、わたしたちは助け合うことがいつでもできるわけです。その人をどうにかしようと思って、わたしたちが考えたり助け合ったり悩んだりしている中に、やはり幸せが生まれてくるということです。あるいはそこで一生懸命にお祈りしたりしなければならないし、そこで気持ちを変える必要はあると思います。だからこそ「貧しい人々は、幸いである。」と言われたイエス様の幸いを、わたしたちはつくっていかなければならない。幸いを分かち合っていかなければならない。イエス様の真実の言葉を、みなさんの生き方の中で真実だということを、証ししなければならない。それは恵みであり義務だと言えるでしょう。わたしたちが感じているこの幸いは、多くの人と分かち合っていく喜びであり 、挑戦であり、義務である。この一週間、わたしたちが日常生活に戻って、社会や家庭でこの幸いを、神の恵みの中でみんなでつくっていきましょう。貧しさ苦しみ悲しみ、どこにでもあるでしょう。みなさん自身が持っているかもしれない。周りにもいくらでもあるでしょう。だからこそこの幸いがあるということを、みんなで祈り合いながら助け合いながら、この幸いを見出していきましょう。そしてこの幸いを作っていきましょう。そこでこそイエス様の言葉が真実である事を、みんなで証しすることができる。それがわたしたちの使命であり、お恵みでしょう。神様が与えてくださる。そしてわたしたちがお互い助け合うことで生まれてくる。この幸いを感謝しながら、 願いながら、行動において示していくことができるように、このミサで祈りをささげたいと思います十

 

第一朗読  エレミヤ書 17章5-8節

主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとしその心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく人の住めない不毛の地炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り暑さが襲うのを見ることなくその葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく実を結ぶことをやめない。

第二朗読  コリントの信徒への手紙 第一 15章12、16-20節

(皆さん、)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました十

 

 

 2019年 2 月 17 日(日)18:00 ミサ
  年間第 6 主日〈緑〉C 年 
   カトリック麹町教会 主聖堂於
    イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 ミサ説教記