カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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190712 彼らを見分ける 朝祷会

英神父 講話 イグナチオ教会 於

マタイ7章13-20節 
狭い門
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

 実によって木を知る
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」+

 この今の箇所は山上の説教のほぼ最後のところなんですが、この20節「彼らを見分ける」という言葉が出てきますけれども、わたしたちの信仰生活においても見分けるということが非常に大事だと言えるでしょう。イグナチオ教会の保護の聖人の聖イグナチオ・ロヨラの祝日が7月31日にありますが、特に今年はイエズス会のローマにおられるイエズス会総長が来日して一緒にお祝いをする予定です。    イグナチオ・ロヨラの考え方の基本は識別、英語でdiscernmentというんですけれども、それは今の聖書の箇所でいえば見分けるということが非常に大事だとイグナチオ・ロヨラは強調しているわけです。これはわたしたちの信仰生活でも心がけなければならない一つの大きなテーマです。15節に「羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」そういうものがあると言っているわけですが、でも根本的に何が羊で、何が狼なのかということが分かっていないと、誰が何の衣をまとっているのか分からないということです。例えば一般的に考えたら狼は悪いもの、わたしたちに害を与えるようなもの。羊というものはわたしたちに益のようなものを与えるものと書いてありますが、何がわたしたちに害を与えて、何がわたしたちに益を与えているかということは、よく見分けて信仰の大元から見なければならないということです。というのはごく一般的に考えたら、皆さんの中でも病気になる方は多いいです。病気は全て悪いものだと、つまり狼だと思っているわけです。それはもちろん病気は治した方がいいですけれども、でも病気は狼のようなものだと思って、わたしたちはそれをどう退けるかということを一生懸命考えるわけです。カトリックだったら病者の塗油を受けたり癒しの祈りをしたりします。でも病気そのものをとってみてもそれが羊なのか狼なのか、はたして狼だと決めつけられるのかという大きな問いがあるということです。それはなぜかといったら、病気を通して神様と出会った人はいっぱいおられるということです。あるいは何か人生における失敗とか挫折とかを狼だと思うけれども、それを通して神様に出会ったり、教会に来て信仰を得た人は山のようにいるんです。そうするとはたして失敗とか挫折は狼だと決めつけられるのかということなんです。だから狼の衣を着た羊かもしれないし、見分けるのが大事です。だから見分けるのは何が大事かと言うと13節 狭き門を見いださなければならないのです。「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」これからわたしたちは識別して見いださなければなりません。 単純に言えば狭い門というのは、わたしたちの信仰そのものでしょう。神に至る道そのものだということで、この狭い門を、あるいは自分の本当の信仰を深める道を見いだしてこそ、何が狼か羊かが分かる。だから狭い門をしっかり見つけていこうとしなければ、識別するということは難しいということです。ほとんどは広い門なんです。「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」なんとなく歩いていたら広い門にみんな行ってしまうわけです。日本語で狭き門は間違いないんです。応募者が殺到して入る人が少ない、大学入試の狭き門とか司法試験とか。聖書は違うんです。行く人がもともと少ない。見つける人がもともと少ないんです。行く人が少なく、入れるか入れないかという見いだす人がもともと少ないと言っているから、日本語の慣用句とは全く意味が違うのです。でもわたしたちはなんとなく気が付いたら広い門を歩いているというわけです。この狭い門を見いだしていないから、その後が崩れてしまうということです。  あるプロテスタントの牧師先生はずっと病気をされていて、結局その先生がわたしに言ったのは、「普通でいいんです 。普通の生き方がしたいだけです。病気なんかなくて、普通の生き方がしたいんです。」と言われたんですが、わたしが牧師先生に言ったのは、「牧師になること自体が普通ではないじゃないですか。元々狭い門を行く道を行くんだから。」でもなかなか牧師先生でも病気を受け入れるということはそれほど簡単なことではないです。だからわたしたちは識別と狭い門に向かってどう道を歩んでいくかということをはっきり見ていかなければならない。それが分かって初めて、羊の皮を身にまとった狼が何なのか。 それは霊操の本では、光の衣を着たサタンと言うんです。でもサタンの衣を着た天使もいるから、わたしたちはどのように日々の出来事の中で、何が本当に狭い門に向かっているのか。最終的に「良い実を結ぶ」というわけです。だから病気から良い実を結ぶなら、それは素晴らしい神様からの贈り物だし、失敗や苦しみを通してそこから良い実を結ぶなら、狭い門を行く。広い門を行くようには間違っているわけです。だから何が実りなのかということをよくよく見なければならない。ここの箇所はよく考えなければならないところです。わたしたちの日常生活にいつも問われていることでもあります。イグナチオ・ロヨラが体験した、羊の皮をかぶった狼がどういうものであるか単純な例でいうと、神様との交わり、あるいは慰めは良いものだと普通は思うわけです。お祈りを深めた時に心が慰められたり、照らされたり、平安が訪れたり。でもイグナチオ・ロヨラは体験の中で書いてあるんですが、年をとってから神父になろうと思って、勉強を始め、ラテン語から始めるんですが、書物にPというアルファベットを見ただけでペトロ思い出してしまい涙が溢れてくると言う。Jというアルファベットを見るとジーザスでイエス様の恵みを思い出す。Mのアルファベットだけでマリア様思い出す。だから勉強ができないんです。それは極端な例ですが、でもイグナチオ・ロヨラは、これはサタンが来ていると。今の目的は勉強することが目的なのに、いちいちMとかJとかPを見て恵みを受けて反応してしまい勉強が出来ない。だからこの慰めは神から来ていないと退けて、今の目的は勉強だから、慰めとかを置いといて勉強に集中すると書いてありました。そういうことはここに当てはまります。案外皆さんごまかされているんです。何か良いものがあったらすぐ納得してしまう。でも本当の実りは何なのかということを考えて、退けるべきものは退けなければならないし。他の例では睡眠のお話しがあって、ある人が夜に深くお祈りしていたら、すごくたくさんお恵みをいただいて、そしたら眠れなくなってしまうというんです。ベッドに入っても神様の照らしがすごくて眠れなくなってしまった。イグナチオ・ロヨラは、それは羊の皮をまとった狼だと。つまりちゃんと寝て睡眠をとらなければ次の日が辛くなるわけです。だからそういう意味でも神の恵みではないということです。そういうことをしっかり退けて、寝るときはちゃんと寝なさいと、本人もそうしていたし、他の人にもそう指導していました。だから神様の臨在を体験すればいいということではないんです。本当の実りとは何か、識別しながら選んでいくということが大事だということです。わたしたちは狭い門をしっかり意識しながら、そこへ行くためには何が必要で何がいらないことか、その時々によって違うと思いますから、何事も識別をしながら歩んでいきたいと思います +

 

2019 年 7 月 12 日(金)7:30 朝祷会
  カトリック麹町教会 信徒館 アルペホール 於
   イエズス会 英 隆一朗 主任司祭 講話記