カトリック 英神父の説教集 ○キリスト教のおはなし○

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11-23 教会黙想会 前編 新しい協働に向けて―霊操の入り口を体験するー」

山内神父 教会黙想会 講話 前編

    youtu.be

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 +イグナチオ教会 英隆一朗主任司祭 挨拶+

 「例年11月23日は教会黙想会を行っています。日曜日は活動がいろいろあって、場所的にも集まることが出来なくて、新しい聖堂が出来たくらいからその時々の課題を黙想したり、あるいは年によっては分かち合いとか話し合いを組んでいることもあります。日頃の活動を休んで、待降節の黙想会を兼ねていると思うのですが、黙想会を開いています。ただ今年はコロナで来ることが出来ない。ここには申し込んだ少数の方々とネット中継で行いたいと思います。例年では一日かけてのプログラムですが、ネット中継で一日観るのも苦痛でしょう、ということで短縮して午前中だけで行いたいと思います。

テーマは元々2019年の去年、イエズス会の全体的な総長から、全イエズス会員が取り組むUAPと読んでいるんですがUniversal Apostolic Preferencesといって、私達が取り組んでいく方向性づけで、4つの課題を与えられて、50年間この課題をイエズス会全体で支持してやっていきましょうというものが発表されています。ただ去年は20周年記念と教皇来日とか、総長来日で少し話しを少ししてくれたのですが、なかなか深める機会もないままで、本当は山内神父様に3月に来ていただいて話してもらうところが、コロナのおかげでなんにも出来なかったということでプログラムが遅れているんですが、今日は切り口となる最初の霊操、イエズス会的な祈りの仕方についてそういうところから入っていきたいと思います。

山内神父様はイエズス会の神父様ですが、イグナチオ教会で以前日曜学校の手伝いをされていて、今は上石神井にあるロヨラハウスでお世話係をされています。UAPについて発表されてから、ローマでの研修会とか日本管区の推進役の一人になっていますので、それで来ていただいていますので、極入り口のところから深めることにして、教会としては徐々に深めていくようにしたいので今日はよろしくお願いします。」

 

山内神父講話

 黙想会を始めるにあたって、新型コロナウイルス感染再拡大に伴い、実際に病気に苦しんでいる方々や、また生活に影響が出ている方々、精神的に辛い思いをされている方々のために祈りつつ。またこの黙想会に直接会場に来てあずかることができない、動画を観ながらとかで参加されている多くの人々を少し思い起こし、少しだけ沈黙いたしましょう。(沈黙)

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 これは今年のクリスマスカードを作ったんですが、懐かしい顔がたくさんいると思います。今は16名いらっしゃってお世話をしています。今年8月16日に帰天されたブラザーマルコは、亡くなる数週間前までお元気で、私が寝ている2階の部屋まで迷ってこられて、「イグナチオ教会はここから行けますか?」とおっしゃいました。イグナチオ教会を懐かしんで帰りたくなったようです。そんなことがしばしばあって、今では懐かしい思い出になっています。
そしてロヨラハウスでの仕事の一方で、イエズス会日本管区の使徒職検討委員会委員長として働いています。
2019年にイエズス会は世界的に目指していく方向性を発表しました。イグナチオ教会もこれからの10年間の教会の方向性を考えていくプロセスを始めていて、本当に良いタイミングでこういう機会を与えられたことに感謝しています。

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 変化の時代に「神の望みを識別する」取り組み
 世界の状況は激しく変化しています。それから世界中のイエズス会会員の数の減少など、イエズス会の外も中も「変化の時代」に入っています。これからの私達のイエズス会とは何なのかを「識別」していく必要に迫られているのです。しばしば出てくる言葉ですが「識別」とは、神の望みを見分けていく、という意味です。
「識別」という言葉が、イエズス会の中ではよく使われています。イグナチオ教会でも「識別」という言葉を耳にされる機会が増えているかも知れません。
2019年以降、イエズス会の向かおうとしている方向性などについて黙想会で説明する、ということが私が黙想会の指導を指名された理由でした。しかし、評議会のメンバーの方々と打ち合わせを繰り返す中で、まずは「協働」の意義、そしてその前提となる「識別」について話しをするように依頼されました。この「識別」とか「霊操」であれば、こちらの英神父様が専門家であられるので適任と思いますが、役不足ではありますが、できる限り祈りとこれからの教会のこれからの進み方のヒントとなるような講話と、黙想の体験としていきたいと思いまので、ご容赦いただけたらいいと思います。

f:id:funwarifukuin:20201125154821p:plain なぜ「協働」が必要とされるのか?
 「協働」という言葉が今回の黙想会のテーマです。「新しい協働に向けて」というタイトルです。
私たちは、ただでさえ変化の激しい時代を歩んでいました。2019年に「イエズス会使徒職全体の方向付け」というものを打ち出して、そして今年、新型コロナウイルスという人類が体験したことがないような災害に全世界が同時に苦しめられています。
「災害」というのは、いつもの当たり前の日常を大きく破壊してしまいます。同時に、災害というのはそれまで当たり前で考えもしなかったようなことの本質について考えさせられる。災害なので嫌なんですけれども、同時にチャンスの時でもあると思います。
多くの場面で私は、自分の召し出しのきっかけとなった出来事を語っているので、今までも聞いたことがある方もいらっしゃると思います。訛りでお分かりでしょうが私は神戸出身で、1995年に阪神淡路大震災を経験しました。その時、私が所属していた小教区の主任司祭は、震災復興のためのボランティア活動のために「教会のスペースを貸すなどの受け入れを絶対にしない。教会は祈りの場所なんだから開けない」と言って、鍵を完全に締めてしまう。そういう神父様で、ひどく不満を覚えたということがありました。
それ以外にも腹を立てたことがあって、私は教会、特にその主任司祭を激しく批判していました。当時は20歳過ぎの若々しい青年でした。正義感に燃え、批判しまくっていました。「なんなんだ!あの主任司祭は!」とか「カトリック教会は終わっている!」とか激しく怒りちらしていました。当時イエズス会の神父様たちのところで勉強していましたから、お世話になっている神父様にプライベートでも話しもしていました。「僕は信仰なんか捨てて、教会から離れます!」と憤って文句ばかり言っていました。
その中の一人の神父様は、今でもよく話しをする方ですが、いつも自分が思ってもいなかったことを指摘される方です。ですから、いまだに苦手な方なのですが、そんな師匠のような先輩の言葉はとても鋭いです。当時憤っていた、イエズス会員でもない何でもない、ただの学生だった私に、「なぜ山内くんは、その時、教会の鍵を開くことができるほど信頼されていなかったのだろう?」と逆に問われました。司祭は、ボランティア活動をする人たちに聖堂を貸し出して、もしもめちゃくちゃにされたらどうしようと不安だったのかも知れない。しかし、山内くんが責任をとってくれるなら、安心して任すことができたのかも知れない。しかし、山内くんはそこまで信頼されていなかったのではないか?という指摘です。「そんなこと言ったって!」と反論をしていたんですけれども、だんだん自分の心の中で怒りの矛先の向きが変わってきました。確かに、
教会を批判する時に、その「教会」の中には「私」も含まれています。もしも「教会」をいい方向に変化させる必要がある呼びかけを神から感じたなら、この「私自身」が変化されなければならない。主任司祭を批判して教会から離れると言っても、教会の一員は私ですから、私自身も教会です。このことをその先輩から言われました。なるほどと、このことが気になって、だんだん教会に対してどういうコミットをするかを考えるようになりました。結局、今のような生き方になってきたわけですが、「聖堂の鍵を開いていきなさい」という呼びかけは25年前からずっと神様から呼びかけられているミッションのように感じています。
今日の黙想会では時間がありませんので、第二ヴァチカン公会議でいったい何が変わり、今の教皇フランシスコはどんなことを語っているかについて詳しく説明する時間はありません。しかし、大雑把に言うならば、教皇や聖職者に従順であることが求められていた「教会」のイメージから、「神の民の教会」へと第二ヴァチカン公会議で大きく方向転換してから55年経っています。55年といえば、大変な時間の流れですが、なかなか大きく変化を起こせなかったことも、正直に認めなくてはならないでしょう。
大切なポイントは、これからのイグナチオ教会の歩んでいく方向を選ぶのは、主任司祭や協働司祭たちだけではなく、ここにいらしているお一人、お一人、ライブストリーミングで参加されているお一人お一人だということです。「教会」とは、神の民の集まりであり、「あなた」のことです。あなたと聖職者たちが、ともに識別し、ともに働く。「協働」の時代の始まりであるということが、この「危機」の時代に問われているのが今日のメインテーマです。

二つのチャレンジに向かって
新型コロナウィルス時代の教会とは?
今、私たちのイグナチオ教会は二つの「危機」に直面していると言えます。一つは、今年の「新型コロナウィルス」でしょう。
評議員の方との打ち合わせで、面白い言葉を学びました。「週一信徒」という言葉です。これまでは、少なとも週に一回教会に行って、御ミサにあずかっていれば「私は信徒である」と胸を張っていることができた。安心感がありました。しかし、今年は多くの人がミサにあずかることができないし、まだ高齢であったり、基礎疾患があるために教会に来てもいけない、という状態が続いている方がたくさんおられると思います。
今も感染者数が拡大していますが、大勢で集まることができないという、以前と違った状況になった時に、「教会」とはなんであるのかが問われています。ミサに出ることだけが「教会」であるならば、もしも来年にまた違うウイルスが出てきて、再来年また次のウイルスが出てきて、ずっと集まれなかったら、わたしたちのこの「教会」は自然に消滅するのでしょうか?いいえ、そうではないはずです。では何をしていけばいいんだろうか。難しい謎かけになってきていますが、本質的なことを問われているような気がします。

  イエズス会日本管区の現状と未来
もう一つの危機は、イエズス会日本管区の現実です。イエズス会という修道会はイグナチオ教会の運営に携わっていますが、この日本管区には今174名のイエズス会員がいます。そのうち、約100名が70歳以上です。多くの神父様が10年後も変わらずお元気で活躍されていることを願いますが、それでも冷静に考えて、今のボニー神父様のように元気溌剌と活躍してくださるかというと、そういうわけにはいかない時代を迎えていきます。
ロヨラハウスだけで、去年の11月から9名の会員を、天国に送りました。それに対して、今年は3年ぶりに村山神父様が一人だけイグナチオ教会で司祭に叙階されました。
それこそ第二ヴァチカン公会議の頃は、何百人もの、40代〜50代ぐらいの働き盛りの神父様たちが元気に活躍されていました。その頃と同じように、今、ロヨラハウスにいるような優秀な司祭達が次々と現れて、次々とリーダーシップをとっていく時代が来ればいいんですけれども、なかなかそうはいかないと思います。これからは明らかに、教会のあり方、「協働」のあり方を考え直していかなければならない時代に突入しています。
イグナチオ教会とイエズス会
カトリック麹町聖イグナチオ教会は、東京大司教区の中の麹町地区の教会です。その教会の運営がイエズス会修道会に委託されています。この教会の信徒の中には、たまたま麹町地域に住んでいるのでこの教会に来ていらっしゃる方も多いと思います。ですから、信徒全員がイエズス会の使徒職の方向づけに向かっていく必要はないのかも知れません。一方で、イエズス会の精神や霊性というのを、聖イグナチオ教会のアイデンティティーとして肯定的に受け止めていらっしゃる方も多くいると思います。そこは個別の判断によりますが、できるだけ一緒に働いてくれる人を呼ぶのが狙いです。

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イエズス会とは16世紀に創立されたカトリック男子修道会です。創立のメンバーの中心的存在は、イグナチオ・デ・ロヨラです。

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日本ではイグナチオに強く影響を受けてイエズス会創立時のメンバーの一人になり、やがてインド、日本へと派遣されていくことになったフランシスコ・ザビエルの方が有名かも知れません。

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  イグナチオの「霊操」
イエズス会を特徴づけるものとして、「霊操」と会の規則が書かれている「会憲」という二つの本があります。「霊操」とは、イグナチオが書いた「祈りの手引書」です。
この本は、単に読むための本ではありません。沈黙のうちに30日間の祈りを深めていく時のガイドブックです。30日間祈るための本を10分で説明するのは不可能なのですが、本当に入り口の入り口だけを簡単に駆け足で紹介します。

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 霊操の1番には「散歩したり歩いたり走ったりするのを体操というが、同じように、霊魂を準備し整えるあらゆる方法を霊操というのである。その目的は、まず、乱れた愛着を捨てることであり、その後、霊魂のたすかりのために、自分の生活を整えることについて神の御旨を探し、確かめることである。」と書いてあります。
イグナチオの祈りは極めて現実的であります。すべてのことに神を見出す、すなわち、日常のすべて、人生の全てを通して、いかにして自分が神に向かって整えられていくか、それがイグナチオの祈りのスタイルです。
私たちが、「神の望む私になりたい」という目標を設定して、それに向かう時に様々な心の動きというが出てきます。特に自分が向かいたい方向と逆の方向に引っ張るものを、イグナチオは「乱れた愛着」と表現しています。


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「霊操」23番には原理と基礎:人間が造られたのは、主なる神を賛美し、敬い、仕えるためであり、こうすることによって、自分の霊魂を救うためである。また、地上の他のものが造られたのは、人間のためであり、人間が造られた目的を達成する上で、人間に助けとなるためである。したがって、人間は、そのものが自分の目的に助けとなる限り、それを使用すべきであり、妨げとなる限り、それから離れるべきである。」

この世界にあるものは全て人間が自由に使っていいんですよ。ただ自分の目的それは「神を賛美し、敬い、仕えるため」である。その目的のために、助けとなる限りそれを使用すべきであり、妨げとなる限りそれから潔く離れていきなさい。それがイグナチオの霊操の「原理と基礎」といわれるところに書かれているものです。
イグナチオの表現は16世紀のものですから、ピンとこないかも知れませんがもう少し、私たちの言葉に置き換えるならば、

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左の四角が現在の私。右側が目的に向かった私。私は神の御旨にそった自分に変わっていきたいと思って毎日進もうとします。ところがそれは私のやり方ではないのではないか?私の長所が失われるのではないか?(批判)何か自分を変えていきたい時に、自分に対する批判的な心。その目標に対する批判的な心が出てきます。例えば小さい時にテキパキ指示を与えるリーダーシップこそが、私の良いところだと思い込んでしまう。しかし、高校生になって人間関係で問題を抱えたクラブ活動の部長になった。「おまえは、テキパキ指示をだしているけれども、全然周りの人の意見を聞いてない。」と言われた時に、「この人は私の長所を潰した」「この先生は私の良いところを否定している!ひどい人だ!」と反発が起こります。自分は変えられたくないと抵抗してしまいます。もし、変わることができれば、みんなにテキパキ指示を出せるし、人の話も聞ける、すごくバランスがとれた良いリーダーになる可能性があります。
次のパターンは、「冷笑」です。どうせ無理に決まっている。友達から変だと言われるのでは?神様に向かって歩んでいく時に、たとえば、「私は教会で愛の人になっていく」と決心したとします。ところが、「すごく変化していくんだ」と言った途端に家族から、「お父さんが変になったのではないか」と言われるのではないか?たとえば「今日からタバコを止めよう。禁煙だ」と宣言する。ところが、いざ友だちの前で「タバコを止めたんだ」というと「お前にそんな事ができるか」と笑われる。そんな感じで何となく「そうだな」と言ってまた一本吸ってしまう。こういう状態を「冷笑」と表現したいと思います。
そして、一番多いのが「恐れ」という抵抗です。もしそんなことをやって失敗したらどうするのか?何か失ったらどうするのか?という「恐れ」が出てきます。だから、目的に向かった自分へと進んでいくことが出来ない。

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ところが霊操はちょっと違います。「批判」とか「冷笑」、「恐れ」に向かっていこうとすると、たちまち塞がれてしまいますが、そうではなくて、一旦「神の眼差し」で自分自身を見つめて、私達の心の奥底にある「本当の望み」に立ち返っていく。そしてそこから明日に向かって新たなプロセスを始めていく。一回自分の本当に深いところに降りていくという作業をやります。

「回心」と言う言葉を教会でもよく使われると思いますが「回心」と言うと何か「罪を悔い改めて、心を入れ替える」と言う意味だけではなくて、自分の本当の神からの呼びかけ、心の底からの望みに自分自身を降りていって、そこからもう一度持ち上げていく。こういうプロセス、心の転換のことを「回心」と呼ぶのです。

ではどうやってその本当の望みというところにだんだん近づいていけるのでしょうか。

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イグナチオの「識別」

カトレット神父様という方の可愛らしい本があり、そこからのイラストを拝借しました。イグナチオ・デ・ロヨラの自叙伝です。その自叙伝の話を紹介して「識別」の入り口を説明したいと思います。
 イグナチオ・デ・ロヨラは非常に勇敢な騎士でした。女王陛下に仕えることが夢でした。ところが1521年にパンプローナで戦っている時に大砲の砲弾を足に受けます。

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敵のフランス軍も丁重に彼を扱ったようです。当時はまだ麻酔がありませんでしたが、イグナチオは足の骨を継ぐ手術を受けたようです。そこから彼の療養生活が始まりました。やっと足が治ったのですが、怪我した方の足は短くなった。騎士として有名になり、女王に仕える。その夢にとても強く執着していたイグナチオは再び手術を受けました。 彼は暇つぶしに、療養先にあった本を読ませてほしいと言って、たまたまあったのが1,2冊の聖人伝でした。それしかなかったので、これらの本をベッドの上で読み始めました。

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頭の中でまた騎士になって女王に仕える日はいつか。人々から賞賛をえる自分を思い描く時もありました。

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はたまた聖人の物語に出てくるような人物に自分がもしもなったら・・と考え出す時もありました。

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2つの夢想の間をいったりきたりする。そういうことをイグナチオは体験します。そこからイグナチオは「あれ。一体どっちが自分の望みなんだろう?」と気になりだしました。

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次第に違いに気づきます。騎士になって再び女王に仕える自分の姿を思い描くと、心の中にかすかに冷ややかな心とか、何か虚しい感じが残る。逆にイエス・キリストやアッシジのフランシスコのように、聖人たちがああやって生きたのなら、どんな事ができるだろうかと、夢をかきたてて行く時に、心の中に暖かさとか落ち着きを感じました。

イグナチオの表現は16世紀の考え方なので、少し古めかしく聞こえますが、心が冷ややかにな感じ、落ち着かない方向というのは、「悪霊」からの呼びかけだと表現しています。反対に、「穏やか」で「落ち着き」や「暖かさ」「染み入るような」感じを受ける方向は、「主イエス・キリスト」の呼びかけではないかと考えるようになったのです。

イグナチオ的な祈り

イグナチオの祈りというのは、全身を使って体操するのと同じように、自分たちに与えられている機能を全部使っていきます。今起こった出来事とかを思い起こしていって、自分の心がどう感じているかに気づいていく。そして自分の心の動きをみる。こっちだなと感じた方に思い切って進めていく意志、心に残るいろんな意志とかを全部使って、出来る限り自分を神の方向に整えていくというのがイグナチオ的な祈りです。

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「意識の究明」というタイトルがスライドにあります。このあとこの祈りを後で一緒にやりたいと思いますが、その前に、この1年を少し簡単に振り返っていければいいかなと思っていまして、小さいショートムービーを作りましたので、まず観てから実際に祈りの体験に入っていきたいと思います。

この1年を振り返る
 もう少し、祈りのモードにしていきましょう。多くの方にとって、この一年は、様々な形で新型コロナウィルスの影響を受けました。
 私だけでなく、世界中の多くの人々が同時に苦しみました。百万人以上もの人がすでに亡くなり、多くの家族が悲しみの中にいる。
 少しの時間、音楽と写真、詩編のメッセージを使いながら、思い起こしてみましょう。

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詩篇13

いつまで、主よ
わたしを忘れておられるのか。
いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。
いつまで、わたしの魂は思い煩い
日々の嘆きが心を去らないのか。
いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。
わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え
わたしの目に光を与えてください
死の眠りに就くことのないように
敵が勝ったと思うことのないように
わたしを苦しめる者が
動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。
あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び躍り
主に向かって歌います
「主はわたしに報いてくださった」と。

 

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心の動きに意識を向ける

霊操の全体を短い時間ですることが出来ませんので、「意識の究明」という祈り方、霊操の日常版です。これを一緒にやってみて体験していこうかと思います。

日常の中で起こる出来事を通して神の望みを見出し、私自身を神の望む姿へと変えていく。そのため毎日の中で行う祈りです。
 人によって進め方は若干違いますが、このスライドのステップは私がイエズス会に入会し、最初の修練期という霊的トレーニングの時代から使っているステップです。このステップに沿って、最後の10分間、特にこの一年の出来事を振り返る「意識の究明」をしてみましょう。

先ほどの心を落ち着かせるステップです。いきなり忙しい1日を振り返ることはできません。一旦、祈りのモードに自分を切り替えます。

第1ステップ

感謝
(黙想) この一年、いろんなことがありました。しかし、とにかく、今、私はここにいる。聖堂の中で、画面を通して、あなたはこの祈りに参加している。最初は感謝のステップです。
少しの時間、 呼吸に意識を向けてもいいでしょう。一呼吸、一呼吸、私は空気を吸い、その空気は私の体をめぐり、体を動かし、心臓を動かしている。そのどれも、私だけの力で作り出したものは一つもありません。普段当たり前ですが、この瞬間、私が息をしているというのは何という奇跡でしょうか。  しばらく恵みを味わいます。

第2ステップ
光を願う
(黙想)今、私達はこの一年、いろんなことが起こったことを振り返ろうとしていますが、神のまなざしで私自身を見つめていきます。
聖霊の働きをここで願います。
私自身を、神の眼差しで見ることができるように願います。この一年、大変な時があったり、嫌な思いをしたり、喜びを感じたり、様々な出来事がありました。神はそれらを通して、私に何を気づかせようとしているのでしょうか。

第3ステップ
出来事に対する私の「心の動き」を感じる。
(黙想)ありのままに起こっている心の動きを感じます。
頭を使って分析をする、というのではなく、どのように心が動いているか。落ち着かない。嫌だな。なんか嬉しいな。何でもいいです。心の中で、頭を使って何かを分析したり、自分や他者を裁いたりせず、ただありのまま自分は何を感じているかに意識を向けます。

第4ステップ

神と心の中で対話する
 (黙想)心の中で、神と対話する。
 神は私に何を語りかけているだろうか。
困難と感じていることに、ひょっとすると神が望んでいることが隠されているかもしれません。神はあなたに何を望んでいるのでしょうか?

第5ステップ
 明日に向かっての助けと導きを願う

(黙想)もしも私の心の奥底で望んでいること、神が私に望んでいることを感じたならば、それに向けて私はどのように変化していくべきでしょうか?
 具体的に自分のすべきことを思い描いてみます。

何かいつもと違う感覚が起これば、これは1回だけで終わるものではないので、日常の中で反復しながら1日の終りとか、少しの時間をこういうふうな形で通例の出来事を違った感覚で見ていく。識別というのがなんとなく自分の中で出来るようになってくださったら、もうすでに先程から言っている、私達は協働、共に働く神の御旨をリードしていく大切な仲間と出来ることになってまいります十

  

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         「新しい協働に向けて―霊操の入り口を体験するー」