2016-11-21 入門講座 19 罪と赦し
英神父 入門講座 19 罪と赦し
前回は赦しの秘跡の説明をして、神様の赦しというお話をしました。 罪を犯した後に回心なりして それから償いをして赦しがあるというのが普通の考えです。警察で捕まったら罰金を払うとか、懲役何年とか償いを果たせば赦されるということが当たり前の事なんですが、イエス様の場合は福音書を読む限りこの順番になっていないんです。福音書の順番は何かといったら、赦しが直接あってから償いと。神様の赦しが絶対的というか悔い改めの気持ちがあるならば、その時点で赦されるということです。 放蕩息子が帰ってきてごめんなさいと言ったら赦されて、償いなしにパーティーになった。赦すという代わりにパーティーを始めるみたいな感じになりました。そうすると償いというものは一体何なのかというと、基本的には新しい生き方への招きということになります。それはザーカイの場合ですけれども、お金儲けをするという罪を犯していたから、貧しい人に持っているお金を施すという形で、自発的な新たな生き方をするのが償いということの本質になるのです。 赦された者として生きる喜びの中で、何か新たなことをしていきたいというのが償いの基本になるということです。それを前回お話したのですが、赦しというのは考えなければならないことがあるので、それを少しお話したいと思います。マタイによる福音書18章15節「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイによる福音書18章というのは全体的には教会生活の心構えのようなものをまとめて書いてあります。共同体的に生きるということの原則みたいなものが書いてあるといわれています。 具体的には教会のリーダーに対する司牧的な章であると言われています。前半も大切な所なんですが、後半の15節のところから みたいと思います。問題は何かと言ったら、共同体の中でトラブルがある、トラブルメーカーがいる、つまり罪を犯す人がいる。 共同体を乱す人がいて それが大いなる問題でどう受け取ればいいか、どうすればいいか、普遍的な問題です。今の教会とか家庭とか職場とかでもどこでも当てはまる話です。ではどうすればいいか、15節「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」第一ステップは当事者同士で話し合い、一対一でちゃんと話し合いなさいというところがスタートです。 本人には言わないで周りの人にばかり言うから、当事者が無視されて噂話になったりする。他人に言うのではなくて本人に直接言って話し合いなさいということですが、これができるだけで大きなお恵みだと思います。 これすら難しいかもしれません。教会の悪い伝統は何かと言ったら、ヒエラルキーで修道会でいったら管区長がいて修道長がいて 、教会でいったら主任神父がいて司教様がいてという形になっています。当事者同士で話し合わないですぐ上に訴えるというのは悪しき習慣だと思います。何かあったらすぐ主任司祭に文句を言いに行く。それは当事者同士でちゃんと お話をしなさいということです。これができるだけで違うと思います。日本人は特に苦手だけど、外国人も得意ではない。 当事者同士で話し合うというのが原則だと思います。案外苦手ですけれどもそこからやらなければ本当の意味で問題という解決の糸口は難しいことはあると思います。ここは合理的に現実的に考えています。16節「 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」普通の言葉でいったら当事者含めて何人かで話し合えということです。何が問題か分からないこともある。第三者の意見を聞いたり、関係者でそのことについてよく胸襟を開いてよく話し合う事は大切であります。17節「それでも聞き入れなければ」それで解決しないことも多々あります。意見が完全に対立して修復できないということもあります。「 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」ここで初めて教会とか主任神父とか役員会のようなところに問題を持って行ってもう一つ上の段階で その問題を扱ってもらう。 やはりステップを踏んでいくことが大事だと思います。それで解決するかどうか、皆さんの意見も聞いて考えて、教会はだいたい主任神父が権限を持っています。わたしは助任司祭だから権限はなく協力しているだけです。最終的に主任司祭がこうすればということができれば、大体のことは落ち着くということになっています。独断的になるんではなくて意見も聞いた上で、一番良い方法をこうしましょうということになるわけです。それで治まることは多いですけれども、それでも治らないこともある。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」ここで問題なのは「異邦人か徴税人と同様に見な」すとはどういうことなのか。解釈が二つの可能性があり、一つはユダヤ人は基本的に異邦人や徴税人とは付き合っていませんでした。 ラテン語では excommunicatio、コミュニケーションを持たない。日本語では破門という厳しい言葉になってしまいます。教会には出入り禁止ですというような破門という解釈もあります。 18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」破門するような権限を与えているようには解釈できるでしょうし、二千年の教会の長い歴史の中で破門せざるを得ないこともあって、ローマ教皇がした例はたくさんあると思います。 今では破門したことが良かったかどうか今でも分からないでしゃう。今から見たら非常に不適切だったということはあります。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたので破門になりました。解かれたのはごく最近で、破門するというのは慎重でなければならないし、東ローマ帝国と別れた時には ギリシャ正教の総司教に対してお互いに破門をし合ったとか、後から考えてそれが正しいかどうかはなかなか難しい問題ではあります。全く破門がいらないかというとそうでもありません。 ただ信者さん同士ではやっています。あの人とは口をきかないとか、挨拶しても返さないとか、コミュニケーションを自分から断っているような人もいるので、そうせざるを得ないような追い詰められた気持ちがあるのでしょうけれども、その辺りの人間関係の難しさもありますし、常識的に考えて距離を取った方がいいということもあります。
もう一つの解釈は何かと言うと、イエス様が徴税人や異邦人をどのようにみなしていたのか、これははっきりしていて一緒に食事をしていたということですから排斥していたわけではありません。というところから考えてみたらこれは最終的には赦しなさいという解釈も一つあります。その証拠にマタイ8章21節からのたとえ話があるのではないかということで 「 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』 イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。』」結局はトラブルメーカーの話になります。トラブルを起こす人がいてその時に「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」七回までですかと聞くのは、ペトロにしたら相当考えた気持ちでいたと思います。仏の顔も三度までというぐらいだから、七回ぐらいまで赦せば寛大な気持ちで赦す。イエス様もわかってらっしゃるから、こういう風にすればいいですかと、七回超えたら何かしなければいけませんかねと。イエス様がおっしゃいます。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」だから単純計算で490回、無限に赦せ、いつまででも赦せということになります。そこでたとえ話の説明になるわけです。「ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が」いたという話ですけれども、おそらくマタイは伝説的にですけれども、徴税人マタイ、お金の計算をしていたというんですけれども、マタイに出てくるお金の単位は 高額なんです。ルカによる福音書はだいたい安いんです。だからルカはもっと質素な生活をしていたと言われています。一万タラントンとは今のお金でいくらかといったら六千億円で、借金があったということです六千億円を借りられる、しかも返すというのはほとんど不可能でしょう。一大企業がする借金を家来がする。「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」ということなので「 憐れに思って」これは神様の御心で、それで赦したということです。借金を帳消しにするということは旧約聖書の伝統から言ったら罪を赦すということとほぼ同じ言葉です。六千億円分をチャラにするということです。 イエス様の子供の頃はヘロデ大王だったんですが、年間予算が九百タラントンです。一万タラントンはヘロデ大王の年間予算を軽く超えてしまって、イエス様が亡くなる時には ヘロデ・アンティパス大王 で、この時の予算は二百タラントンです。一万タラントというこれだけの借金を棒引きにできるというのはローマ帝国の皇帝ぐらいだと思います。ヘロデ大王というのはローマ帝国の端の端です。そのような大きなお金を担保も取らずに完全に赦したということです。これは明らかにわたしたちに対する罪の赦しの象徴です。つまり神様がわたしたちの罪を赦すというのは、これくらい大きな借金を全く帳消しにするのと同じぐらいの価値があるということです。わたしたちの罪が赦されているということは、それぐらい膨大な借金をチャラにするのと同じであるということです。「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」31節で仲間たちが牢屋に入れられた人がかわいそうに思ったので主君に残らず告げたというんです。百デナリオンの借金というのがレートで計算すると百万円です。百万円も借金するのは大変ですが、六千億円も借金を帳消しにしているのに、なぜ百万円にこだわるのかということがこのお話のポイントになります。「主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」ということで、もともとの主君からも赦しを得られなくなった。そうすると本当の償いは何なのか。赦された者の償いは何なのかといったら、それは人を赦すということになる。赦されて人を赦すということが本当の償いになるということです。赦されているからこそ赦す。わたしたちは何が難しいかといったら、百万円の世界に捕われてなかなか人を赦せないということです。単なるお金なら簡単かもしれないけれども、実際は信頼関係を裏切られたり傷つけられたり多々自分の心の中にあるので、人を赦すということは場合によっては簡単ではない。ではどうしたら赦せるかというと自分が赦されているということをどれだけ深く思えるか。自分が罪人であってどれほどの罪を赦されてその恵みの大きさ、それに気づくことができた時にわたしたちは少しでも人を赦すことができるかもしれないということです。誰が七の七十倍赦したのか。イエス様が赦したのではなくて、イエス様がわたしたちの罪を七の七十倍赦しているということです。あるいは今も赦し続けている。赦しの秘跡を通して、あるいは他のお祈りとかを通して、七の七十倍の七十倍ぐらいだと思います。つまり神様が無限に赦してわたしたちの罪を赦してるから、少しは人の罪を赦すことができるのではないでしょうかということだと思います。 人を赦すということがわたしたちに与えられている一つの大きなお恵みだということです。課題というよりはお恵みであるということが言えると思います。これを別の箇所で言うと マタイ6章5節「『祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。』」ここは基本的には祈りのことです。祈る時にはなるべく隠れて祈りなさいということです。祈りというのは神様の関係の中ですから静かなところで自分なりに落ち着くところで祈られたらいいと思います。隠れたところでというんですけれども、心の雑念から隠れるというのか世間の雑踏から隠れる。自分の心の中の捕われとかを置いといて、神様の前でというニュアンスだということです。何を祈るかというと「くどくどと述べてはならない」というのは自分の願いを押し付けるということです。これをどうしても適えてください。御旨に適うことならいいのですが、現世利益的な祈願だけでは足りないでしょう。そして9節から主の祈りをイエス様は弟子たちに伝える。今のカトリック教会とプロテスタントの教会の90%ぐらいはマタイ版を唱えていると思います。 ルカ版を唱えているところは見たことがないぐらい少数だと思います。 この主の祈りの中で人間がすべきこと、わたしたちがすべきことは一つしか書いていない。他は何々になりますようにとかですけれども、人間がするべきことは12節 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」人間がするべきことはたった一つ、人を赦すということだけが書いてあります。ついでに負い目と書いてあるんですけれども、わたしたちの負い目を赦してください。 今の主の祈りは罪となっていますけれども原文は負い目です。何かといったら借金をチャラにしてくださいというお祈りなんです。わたしたちも他人の借金をチャラにしますから。借金と罪というのはユダヤ人にとって同じ言葉なんです。罪の赦しということは借金の帳消しということです。ちなみに今の主の祈りは聖公会とカトリック教会が合同で作ったものです。罪と訳したので 問題ありという人も多いです。だから昔のカトリックの文語訳は罪になっていません。いずれにせよわたしたちがすることは他人の負い目を赦す。借金をチャラにする罪を赦すということが求められています。それで14節 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」人を赦さないという非常に大切なポイントをイエス様がおっしゃるわけです。 ここで思い出すことは、赦しというのは日本の文化にあまりないものではあります。 日本の怪談話などで恨めしいとかで思うことは、いじめた人が罰せられるのは正義にかなっている。何が悲劇かというと、罪を犯していない被害者がかわいそうです。被害者であるということは天国に行ける。罪を犯すと行けないわけだけれども、被害者なんだから天国へ行けばいいものを天国へ行かないでいるのは赦せないからだけです。赦しのない世界の悲劇だと思います。彼らのすることは赦すことだけなんです。たとえば放蕩息子のお兄さんは赦せないから怒って入らない。パーティーは神の国の喜びですけれども怒っているから赦せないから入れない。先ほどの仲間を赦さない家来が百万円をチャラにできなくて牢に入れられた。誰が牢を作っているかというと赦せない自分の心に捕われているだけだと思います。それが被害を受けている人の心情だとも思います。赦せないからこそ苦しい。心の牢屋のようなものに捕われてしまうということはわたしたちにあり得ることでもあります。被害者であるということの苦しみ、その悪循環から逃れられないというのは現実的な話です。 それで一生苦しんでいる。赦せないということは自分が背負った傷とか耐えられないトラウマとかそういうものがあるから赦せないのです。それが心の牢屋になっているわけです。だからどこに立ち戻るかといったら赦されているということです。神様から愛されてしかも無限に赦されて愛されて癒されているということに立ち戻る必要性があると思います。わたしたち人間の一つの大きな苦しみの世界です。そこから脱出する道をイエス様が示したとも思います。赦せない世界を誰が赦してくれるのか。 神様が人間を赦してくださったからこそ、わたしたちには人を赦す可能性が与えられているということです。これこそ希望であり福音ではないかと思います。 根本的に神様が人間を赦すとか現実がないと人間が人間を赦せないということです。赦せない世界というのは恨みに対してただ宥めているだけで根本的な解決にはならない。神が赦したということがなければわたしたち人間はどうやって赦せるのかという問いではあります。
カトリック教会には大罪と小罪があります。大罪というのは死に直結するような深刻な罪、モータル・シン(Mortal Sin)というんです。それは六千億円ぐらいの借金に値するような大きな罪がある。それに対して小罪というのはわたしたちは神様に向かっているけれども、どうしても犯してしまう小さな失敗ということで、大罪というのは神との関係や人間関係を著しく傷つけていて六千億円払っても回収しきれないぐらい大きな罪です。今の段階で大罪か小罪かはなかなか決めにくい。金額の問題ではない。大きい小さいの問題でもないということで著しく傷つけてしまって、自分で穴埋めできないぐらいのことは大きな罪と考えた方がいいし、それは赦しの秘跡に預かりなさいという勧めなんです。自分では償えない。穴埋め的なことでは赦しの秘跡にあずかりなさいということです。なるべく大罪を抱えているのでミサには預からない方がいい。赦しを得てから ミサに預かりなさいという勧めです。小罪の方は線引は難しいですが、絶対告解しなければならないものではないけれども、告解の際には 気がつくところは告解した方がいいぐらいです。 もちろん小罪だから犯していいということはありませんが、ただ両極端なんですね。小罪の小さな小さなことばかり気になってしまう必要性はありません。けれど大きな罪に鈍感になるのも問題でしょう。神様から愛されているものとしてやはり心に引っかかったり、これはダメではないかと思うことは微妙に一人一人違うかもしれないけれども、それは神様に赦しを願った方がいいと思います。ただ現代的にいうと大罪小罪は自分が犯した個人の罪なんです。現代の問題としていうならば、大きい罪が何かといったら社会的な構造上に関わる罪をわたしたちはもっと注意を払うべきだというのが現代の流れです。マタイ21章12節「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。」イエス様が十字架にかかる前です。神殿にのぼられてまず最初にされたことが神殿清めで商売している人々を横暴な行動をとられて人々にショックを与えました。 日本の神社の前にあるお祭りの屋台のようなものを怒ったわけではなくて、両替人とか鳩を売る人を怒ったというんです。両替人は何かと言ったら献金するために絶対必要なんです。当時流通していたのがローマ帝国の貨幣だから、それは異邦人のお金だからユダヤ人の神殿に寄付ができない。 だからシェケルというものにチェンジしないと献金できない。だから両替人というのは非常に必要だったということです。献金専用に両替しなければならないけれども、そのレートをかなりピンハネしていた。しかも本来神殿で捧げる生贄は牛か羊なんです。規定に合わないものは捧げられませんでした。傷があったりとかなんとか。そうするとわざわざ田舎から牛や羊を持ってきても、検査官にこれ駄目ですよと言われたらささげられないんです。仕方がないからほとんどみんな買っていたんです。 当局のお墨付きのを買うんですがとても高かった。そのとても高いものを買えない人は、聖書の中では牛や羊を買えない人は鳩でいいと書いてあります。この鳩にも高値をつけて売る。田舎から鳩を持ってきても結局ケチをつけられてそこの鳩を買わされます。ここでやっている人たちは組織的にお金儲けをしていた人たちです。上前を誰がとっていたかというと祭司職のレビ人がとっていた。 現代的にいうと構造的な罪といいます。一人一人の問題ではなくて、みんなでグルになってお金儲けのシステムを作っていることに対して、イエス様がものすごく怒っていたという風に考えるのが一番の 筋だろうと思います。現代はこのような構造的な罪というか、社会的になんとなくその中に巻き込まれて入ってしまう。金儲け第一主義みたいな、個人経営の人は別かもしれないけれども、大きなものに入れば入るほどその中に入ってしまう。そういう罪をイエス様は告発したんであろうと言われています。
フランシスコ教皇が「ラウダート・シ」といってエコロジーに関する本を出したんです。難しいという意見も聞きますが、基本的に何が書いてあるかといったら環境破壊は人間が地球を強盗の巣にしてしまっているという話です。金儲け第一主義で自然を勝手に荒らしたり、特に大企業とか何かだけではないかもしれないけれども、勝手に強盗の巣のようにしてしまっている利益第一主義というのをパパ様はいけませんといっているので、それは社会的罪と言うか、こういうことも個人の罪だけでなしに今の社会が持っている罪は大きな罪で、なかなか回心は難しいし償いは難しいですけれども、そういうところまでわたしたちは意識していくようにとは呼びかけられています。それは赦しの秘跡の中で自覚的に言えるかどうかはわかりませんが。それと子供のことが出てくるのです。子供の視点に立って考えるべきです。大人は利益で考えるからどちらが損か得かとか、ここでは子供たちこそイエス様を賛美している。子供たちの声の中にこそ 真実の響きがあるというのが大人のように社会の中に巻き込まれていない立場の人の意見こそ大事なことであると思います。そこで子供のことを言っていると思われます。 今日は罪と赦しのことでしたが深い深いことです十
2016 年 11 月 21 日(月)
第 19 回 キリスト教入門講座
カトリック麹町教会 信徒館ヨセフホール於
イエズス会 英 隆一朗 神父 講座記